㊶ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第6節「大日本映画党 演劇俳優陣 新国劇」
東映時代劇全盛時代、両御大、月形龍之介に続くスターとしてチャンバラ映画を支えた大友柳太朗、また、今村昌平監督東映配給『楢山節考』(1983年第36回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞)に主演した緒形拳、この二人は新国劇出身で、辰巳柳太郎の弟子でした。以前紹介しましたように大河内伝次郎、原健策は大阪の第二新国劇の出身です。今回は昭和の映画界に貢献した新国劇についてお話いたします。
澤田正二郎
早稲田大学の学生だった澤田正二郎は、1911年、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第二期研究生となり『ヴェニスの商人』の端役で初舞台を踏みました。
1913年、研究所を卒業した澤田は、協会を脱会し、新劇団 美術劇場を結成します。7月、文芸協会は、創設者・島村抱月と松井須磨子の不倫問題から解散に至り、二人は芸術座を設立し、澤田も入座しました。翌年、須磨子とぶつかり退座すると井上正夫の新時代劇協会や上山草人の近代劇協会での苦しい地方巡業を経験します。
1915年、芸術座に戻った澤田は再び須磨子と対立。1917年3月、新富座公演を終えると退座し、4月、これまで広く大衆に支持されてきた国劇・歌舞伎に代わる演劇となることを目指す新国劇を、倉橋仙太郎など文芸協会二期生達と、同じ新富座で旗揚げました。
旗揚げの新富座公演、京都南座公演と失敗に終わりましたが、背水の陣で臨んだ大阪道頓堀角座公演でのスピーディでリアルな立回りが評判を呼び、松竹の白井松次郎社長と専属契約が結ばれ、提携公演が始まると尻上がりに人気を拡大してきます。
1919年、新国劇は、白井の提案で行友李風を正月公演から座付き作者に迎えて『国定忠治』『月形半平太』など上演、大ヒットとなり関西の劇界を席巻します。
舞台『月形半平太』澤田正二郎
1921年には念願の東京公演を果たし、両作品に加え『大菩薩峠』などで広くファンを集め、大成功しました。
舞台『大菩薩峠』澤田正二郎
新国劇は、剣劇が人気を集めましたが、トルストイの『復活』やロスタン原作『シラノ・ド・ベルジュラック』と『レ・ロマネスク』を日本風に翻案した『白野弁十郎』と『剣客商売』など翻訳劇の公演も行い、『白野弁十郎』はその後も新国劇の代表作として度々上演されました。
また、菊池寛原作の『父帰る』『敵討以上(恩讐の彼方に)』の他、岸田国士、賀川豊彦、久米正雄、真山青果、佐藤紅緑などの作品など、現代劇の上演にも積極的に取り組みます。そして、『仮名手本忠臣蔵』などの歌舞伎作品から『金色夜叉』など新派作品に至るまで、様々な演目に挑戦していきました。
演劇活動で全国を飛び回る澤田正二郎は、映画界からの熱心な誘いに応じ、公演で忙しい合間を縫って映画にも主演します。1921年松竹蒲田現代劇映画『懐かしき力(力よ響け)』佐々木杢郎監督で主演デビューすると、1924年、新国劇の記録映画『野外劇 高田馬場』、1825年1月公開、行友原作牧野省三監督東亜キネマ『国定忠次』、2月公開、菊池寛原作牧野省三監督東亜キネマ『恩讐の彼方に』、5月公開、行友原作衣笠貞之助監督聯合映畫藝術家協会『月形半平太』と5作品に出演しました。
1925年東亜『国定忠次』牧野省三監督・国定忠次役
しかし、1929年3月、満36才の澤田正二郎は演劇史に残るその人生を終えました。
倉橋仙太郎
1917年、親友の沢田正二郎のよびかけで、共に新国劇を立ち上げた倉橋仙太郎は、1919年、病気のため新国劇を退座、1923年、大阪の南河内に「プロレタリアの新文化村」を開設しました。
そして、沢田を校長に、1年の課程で俳優と文芸の2コースに分かれた新民衆劇学校を自宅に設立して研究生を募集、第1期生に原健策、2期生に大河内伝次郎が入校し、農家のあばら屋で集団合宿しながら演技の基本を学びます。
1924年2月、学校の卒業生で新民衆劇団(第二新国劇)が作られ、卒業公演を兼ねた奈良県五条町での旗揚げ公演の後、水平社や農民組合の支援を受け、関西各地の農村を巡演し、原と大河内の二枚看板で東京でも定期公演を行いました。1926年、二人が退団し、劇団は解散します。
倉橋は、1931年に一燈園、西田天香の支援により京都山科にスワラジ劇園を設立、1965年、倉橋の死後も演劇活動は継続され、2020年にコロナ禍で惜しまれながら解散するまで89年にわたり劇団は続きました。
1959年には、倉橋仙太郎は、東映京都撮影所の演技課に所属しており、1960年工藤栄一監督・美空ひばり主演『天竜母恋い笠』に出演しています。
島田正吾と辰巳柳太郎
1929年3月、座長沢田の突然の逝去により、劇団存続の危機を迎えた新国劇は、文芸部長の俵藤丈夫によって、1923年加入の島田正吾と1927年に入り青年部に昇格したばかりの辰巳柳太郎を二枚看板に立て、両人の活躍でこのピンチを乗り切りました。
島田正吾は、高校を中退して17歳で入座、澤田の部屋子となり、翌年青年部、1927年には幹部に昇進します。新国劇の再起をかけた早稲田大隈大講堂公演で『シラノ』の主役を演じ、その気迫のこもった演技は満員の観客の喝采を浴びました。
『沓掛時次郎』『関の弥太っぺ』『瞼の母』『一本刀土俵入り』など長谷川伸の股旅物、『白野弁十郎』『鞍馬天狗』などを得意とし、同い年の後輩、辰巳と共に新国劇の大黒柱として八面六臂の活躍で新国劇を牽引しました。直弟子には若林豪がいます。
戦後、新国劇は澤田正二郎以来の映画への出演を始めます。大映、松竹から始まり、1954年からは製作を再開した日活に協力し、その後、新東宝他各社にも出演。島田は東映で任侠映画など11作品に参加しました。
1966年東映『昭和残侠伝 一匹狼』佐伯清監督・秋津政次郎役(右)
1926年、商業学校を中退し旅回りの一座に身を投じていた辰巳柳太郎は、小林一三が国民劇を作るために創設し、坪内逍遥の養子坪内士行が指導する宝塚国民座に参加します。
しかし、日本らしさを志向する辰巳は、翌年、宝塚を退座、坪内から勧められた新国劇に入門し、澤田の部屋子として下働きに努めました。澤田の死後にようやく青年部に昇格したばかりの辰巳は、その様子が澤田に似ていることや明るくて豪放磊落なところが評価され、いきなり新国劇の看板スターに大抜擢され、プレッシャーに苦しみながらも期待に応えて大活躍します。
辰巳は『国定忠治』『丹下左膳』『大菩薩峠』『無法松の一生』戦後は『王将』などで主演を重ね、島田主演物では相手役として濃厚な演技で島田を支えるとともに、弟子として先述の大友柳太朗、緒形拳などを育てました。
映画では松竹『武蔵と小次郎』マキノ雅弘監督、日活『国定忠治』滝沢英輔監督、新東宝『王将一代』伊藤大輔監督など、得意とする演目の作品で主演を務め、東映では任侠物を中心に13作品に出演しました。
1966年東映『遊侠三代』村山新治監督・桧垣常吉役
「静の島田、動の辰巳」と言われた島田正吾と辰巳柳太郎は同じ年齢の良きライバルとして切磋琢磨し、また、助け合うことで、澤田亡き後から1987年に解散するまで、二本柱として昭和の新国劇を支えました。
大山勝巳
島田、辰巳と共に戦後の新国劇を支えたのは大山勝巳でした。
1946年、新国劇を観て感激した早稲田大学3年の大山克巳は、大学を中退、新国劇に入団し、辰巳柳太郎に師事します。下積みから殺陣の名手として徐々に頭角を現し、島田、辰巳が還暦を迎えた1965年の体制改革で、大山は緒形拳と共に次世代のエースに躍り出ます。
1968年、緒形が退団した後、大山は島田、辰巳を継ぐ存在として、若手劇団員を育成しながら、経営に苦しむ新国劇を支えて行きます。
1975年、島田、辰巳からバトンが渡され、『国定忠治』や『月形半平太』など新国劇の代表作の主役を継承、大山勝巳と改名しました。
1987年、御園座・新橋演舞場での創立70周年記念公演を最後に惜しまれながら大山は新国劇の幕をおろしました。
上田吉二郎
1918年、東京での旗揚げに失敗し、大阪に拠点を構えて売り出し中の澤田正二郎に弟子入りした中学生、上田定雄は、後年、個性派俳優上田吉二郎として黒澤明監督など様々な名監督作品に数多く出演しました。
1921年、『カレーの市民』の初舞台から徐々に頭角を現し、新国劇がマキノと提携した牧野省三監督『国定忠次』、衣笠貞之助監督『月形半平太』でも役付きで出演しています。
1926年、一身上の都合により、新国劇を退団し、若くして一座を構えて全国を回り、その後、映画界に入りました。
どこか憎めないアクの強い演技は今も吉本新喜劇の島田一之介がモノマネで使っています。東映では62作品に出演しました。
1958年東映『少年三国志』内出好吉監督・稲葉熊之助役
大友柳太朗
1930年、松山中学を卒業後、俳優を夢見て大阪に出て来た18才の中冨正三は、歯ブラシの行商中、道頓堀角座で観た新国劇辰巳柳太郎主演『月形半平太』に感激、父の友人の紹介で辰巳の弟子第1号となります。
中学の先輩伊藤大輔から拝借した中冨大輔という芸名で研究生として俳優修業をつみ、1933年に大部屋俳優に昇進、徐々に顔が売れてきました。
1936年、新国劇に新興キネマから若手主演俳優のスカウトが訪れ、師の辰巳と所長の永田雅一の話し合いで大友柳太朗という芸名で新興キネマに移籍が決まりました。
いきなりの主演デビュー作は『青空浪士』で共演はスター山田五十鈴という大抜擢でここから映画スター街道を歩みます。
1937年新興『青空浪士』押本七之輔監督・浪人津村三九馬役
山田五十鈴の大ヒット作『吉田御殿』で相手役を務めると、1938年『忍術関ヶ原 猿飛佐助』で主演の猿飛佐助を演じ、これが戦後東映娯楽版第1作『忍術猿飛佐助』につながります。
1937年新興『吉田御殿』野淵昶監督・坂崎出羽守の旧臣湯浅新六役
1938年新興『忍術関ヶ原 猿飛佐助』森一生監督・猿飛佐助役
大友柳太朗は、先述の通り、戦後、『快傑黒頭巾』や『鞍馬天狗』、『鳳城の花嫁』など東映179作品に出演し、東映時代劇を支える中心俳優として広く人気を集め、大活躍しました。
緒形拳
1958年3月、『王将』の作者北条秀司の紹介で新国劇に入団した緒形明伸は、念願の辰巳柳太郎の付き人となり、早速、東横ホールの辰巳主演作品で初舞台を踏みます。1960年、島田正吾の抜擢で、明治座『遠い一つの道』の主役を演じ、映画化・テレビドラマ化されました。この時、北条の妻と娘の命名で緒形拳を名乗りました。
そして、1965年、第3回NHK大河ドラマ『太閤記』で主役豊臣秀吉に大抜擢され、翌年も大河ドラマ『源義経』で弁慶を演じることでその人気は確立、1967年に創立50周年を迎えた新国劇の明日を担うエースと目されますが、翌1968年、緒形は新国劇を退団し、映画、テレビに活躍の場を移しました。様々な作品に主役として出演し、1982年には大河ドラマ『峠の群像』大石内蔵助役で再び主演、NHK大河ドラマには計9回出演するほどの日本を代表する大俳優になります。
東映では、1964年沢島忠監督『間諜』から始まり、1980年工藤栄一監督『影の軍団 服部半蔵』、深作欣二監督『魔界転生』と助演の後、工藤栄一監督『野獣刑事』で主演を務め、以後、先述の今村昌平監督『楢山節考』、宮尾登美子シリーズ五社英雄監督『陽暉楼』『櫂』、檀一雄原作深作欣二監督『火宅の人』、今村昌平監督『女衒 ZEGEN』、深作欣二監督『華の乱』、降籏康男監督『将軍家光の乱心 激突』、舛田利雄監督『社葬』、大森一樹監督『継承盃』など15作品に出演しました。
1964年東映『間諜』沢島忠監督・佐々木忠行役
1983年『楢山節考』今村昌平監督・辰平役
その他、新国劇出身者としては、1933年入団の黒川弥太郎、1965年入団若林豪、1967年入団石橋正次、佐々木剛などが芸能界で活躍します。
劇団 若獅子
1987年、新国劇解散後、辰巳柳太郎の弟子で新国劇団員の笠原章は劇団若獅子を立ち上げ、今も元気に新国劇が作り上げた演目の上演を続けています。
殺陣 田村
新国劇は、1921年5月、大阪道頓堀の浪花座にて、謡曲の『田村』の伴奏にあわせて紋付き袴白足袋姿で立回りの型を演じる演目『殺陣』を初上演。 その後の記録では、澤田正二郎追悼公演の1929年3月御園座、4月浪花座、5月御園座、1936年4月浪花座は『大殺陣』、7月新橋演舞場再び『殺陣』というタイトルで上演を重ねます。そして、1936年9月、演目『殺陣』は大阪歌舞伎座にて『殺陣 田村』というタイトルで上演されました(「松竹大谷図書館」調査)。
以後、この演目『殺陣 田村』は新国劇や各演劇集団で受け継がれ、昨年行われた「東映剣会創立70周年記念公演」でも上演されました。
澤田正二郎が立ち上げた新国劇は、国民大衆のための劇団として「右に芸術、左に大衆」をスローガンに、理想を目指しつつも大衆を見ながら片方の足を半歩ずつ踏み出し前進する、半歩前進主義で進んでいきました。その歴史は日本芸能史に燦然と輝き、時代を作った劇団でした。
新国劇・澤田正二郎