日本へ行ってきました
日本への一時帰国はあっといまだった。
記憶が持たなくなり始めたという祖母に会いに行き、はじめて「老い」をゆっくりとした速度で感じたとても意味のある時間だった。
祖母の夫(私の祖父)は私が生まれる前に他界したので、彼女は長らく独り身だったが、いつ帰省しても家の中は綺麗で、大きな家具の模様替えが行われており、運動器具があって、マラソンも好きな、私の幼い頃の祖母は本当にこまめでまじめで、きびきびとした優しい人だった。
そして今も変わらず、まじめで優しい人だった。
小さいときは年を重ねるほど、自由が増えるのだと思っていた。
実際肉体的自由、精神的自由、経済的自由と段階的に今もあたらしい人生の扉をあけていく感覚がまだある三十代前半。
でも祖母を見て、ああ、年を重ねるとは時としてまた孤独であり、不自由と向き合うことでもあるのかと思った。
生が限りあるものであることを、祖母のおかげで久々に実感できたのだった。自身では操縦しきれないことに囲まれていた。母が「おばあちゃんは大事なことを私たちに教えてくれているね」と言っていたが、本当にそうだと思う。短い帰国中、いろんな再会に胸が躍ったけど、祖母との再会が一番いろんな感情や考えを運んでくれた。
帰ってから数日経ち、刻一刻と、私たちは今あるのこりの寿命を費やして生きているのだなと、あたりまえのことをあらためて認識するのだった。
限りある命のなかで、私はコラージュをやり続けている。
限りある命のなかで、今日も私たちはなにかをしている。
なんで。意味はない。
でもいいのかもと思った。
「つづけたもん勝ち」というようなことを親しい友人が今回の帰国時にふとした会話のなかで言ってくれたのに励まされた。
創作意欲にも段階がある気がする。
まずは自己治癒の作用があって(実際自分の4年前くらい)
次は自己証明(私はここにいる、とかたちにする、3年前くらい)
自然な創作活動を続けるうちに
そのうち自己実現、承認欲求に通じているときもあって(時々今でも「あれ、不足感から創作してないか?」「これはエゴでは?」と自問自答するときがある)
それが反映された作品ってやっぱりわかるものだ。
そうではなくて、自然とだれかに求められ、求められなくても自分がやりたいと思う自然なタイミングでやりたいと思うようになって、
ゆくゆく、それは創作活動だけでなくても、自分の経験と才能を生かして社会や人との繋がりをあらためて求めるようになるなと感じる。
貰った分、返していきたい、この循環を繋げていきたいとも思うようになってきた。でも、まだ練習中という感じ。
生活に意味はない。
でもなんとなく今を楽しみたいと、より一層思うようになってきた。
今私は一番「今」を二十代の頃より愛しているかもしれない。
目標は3才くらいの自分だな~。
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