人生の意味
陽が昇る前に出勤し深夜まで働きづめの毎日。面白くもない授業をいい成績のためがまんして受講する毎日。面接を何度受けても採用されず無力感に囚われる毎日。日々の食べるモノや寝る場所を確保するのに必死な毎日。外車を乗り回し週末はパーティに明け暮れるインスタ映えする空虚で何もない毎日。
当然だけれど、無数にあるそれぞれの毎日。
そんな毎日にどれだけの意味があるのだろうと、考えてみる。過ぎてゆく日々にはいったいどんな意味があるのだろう。人はどうして生きるのだろう。ぼくがここにいるのは、なんでだろう。なんで毎日こんなことやってるんだろう。
そうやって考えはじめると、またつぎの問いがうまれていく。
なんで毎日学校へ行かなきゃいけないんだろう。この授業、何の役に立つんだろう。どうして試験なんか受験なんかあるんだろう。なぜ一斉に就職しなきゃいけないんだろう。なんで毎日こんなキツイ仕事をやるんだろう。でも、やりたい仕事って何だろう。なんで人を好きになるんだろう。生きるってなんだろう。生きていくってどういうことなんだろう。
そういった問いについて、最近わかってきたことがある。腹に落ちてきたものがある。
それは、なんのことはない、そんなものを問うてみても仕方がない、ということだった。そもそも人生に意味などない。生きるということに意味などあるはずがないのだ。だって、本人の意志とは関係なく生まれてきちゃうんだから。生きるとは、今、目の前にあるこの生活そのものなのだ。そこに事前に用意された意味などありはしない。
朝起きたらオナラを一発二発。水を飲みトイレで唸り、妻とふたりで散歩に出発だ。ぺちゃくちゃお喋りしながらひと汗かいて帰宅したのちシャワーを浴び、呼吸法と体操とストレッチ。お湯を沸かし洗ってあった食器を片付け、息子に声をかける。妻がフルーツを切ってテーブルへ供し、コーヒーの準備をしてくれる。ラジオをつけたらいつものアナウンサーの声がする。さあ、今日も通勤の身支度をはじめよう。
こういった何気ない日常に意味をつけていくのだとしたら、つけられるのはこのぼくしかいない。当たり前だ。他の誰かが答えを持ってきてくれるはずはないからだ。
今、この瞬間をどう感じて、どう考え、どう行動し、どう生きるか。目の前のこの時間はこの生活は命の瞬間である。その命の刻の使い方を自分で考え、感じ、選び、自分に対して答えてゆく。そうすると、人生に意味が積みあがってゆくのじゃないか。生きるということに意味を与えていけるのじゃないか。
君よ。
迷うがいい。立ち止まるがいい。もがくがいい。うしろを振り向いてみるがいい。今を嘆くがいい。道を失うがいい。何べん失敗したって構わない。何べん転んだっていいじゃないか。きっと、どんなことになっても大丈夫。君には自分で道を選び進む力がある。おおらかな意志がある。粘り強い良心がある。
そうやってみずからの力で道を見つけ進むことができたなら、きっと気づくはずだ。
生きるとは、いま、この瞬間を喜び、味わい、祝うことであると。
何気ない毎日の刻一刻をそうやって生きてゆき、人生の終わりに、自分の人生を嬉しそうに語る面倒くさいジジババが出来上がったら、それだけで人生は大成功なんだ。