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食べたいものを食べたいと言って何が悪い!#DAY69

土曜日みんなでランチしよう、そのときに日本食をめぐる争いをしましょう!という話になった。

4人の隊員うち、1人T君が予定があるから、今回はぼく抜きで争ってくださいという。彼は近々日本から救援物資が18㎏も届くそうだ。送料3万円超え。

やはり余裕のある人は違う。

あれ?じゃあAさんもちょくちょく日本から物資が届いているから別に飢えていないのでは?ぼくとK君だけでよいのでは?遠慮すべきでは?ちょっとがめついのでは?と先制攻撃をかまそうかと思ったけれど、新たな火種を生みそうだったのでグッとこらえた。

それで、ぼくが日本食を受け取ってから、いろいろ我慢できなくなっていることに気づいた。いや、正確には我慢する必要はないんじゃないかと思うようになった。正直になったと言っても良いかもしれない。

こういう感情をなんと表現するんだろう。

それまでのぼくは色々諦めてしまっていた。バックパッカーとか旅慣れた人はわかってくれると思うのだけど、途上国の旅行って基本的に疲れることが多い。見込み違いの数々。お湯の出ないシャワー。水圧のありえないほど弱いジョウロのようなシャワー。軋むベッド、絶対に軋まない死体安置所のようなベッド。水の流れないクサいトイレ。不快な店員。隙あらばおつりを平気でちょろまかそうとするタクシー運転手…。

そういういくつもの不愉快で疲労感募る経験を経て人は諦観を手に入れる。期待するのをやめてしまう。相手に対する期待値が下がる。何かに勝手に期待してしまっていれば、裏切らたときにショックを受けるしストレスが溜まる。感情の起伏が起こる。憤る。泣きたくなることもある。これはほんとうに疲れる。怒るのも悲しむのも体力がいるからだ。相手に期待することさえやめてしまえば裏切られるようなこともない。怒ることもない。無意識と意識、双方から諦観へ向かうのは自然なことだ。

これは哀しいことだけれど、そうしないと精神が持たない。

ないものはないんだから、それに対して文句を言っても仕方ないじゃないか。現実にあるもの、手に入るもので幸せを感じるように欲望を小さくした方が幸せになれると思わない?

いつしかぼくはそんな価値観を人生の真理として、いつでも取り出せるよう胸のポケットに入れていた。

でも、辛ラーメンや韓国海苔が、そんなぼくを変えた。目を覚まさせたと言っても良いかもしれない。

ダメなものはダメだと言わないと改善しないし、欲しいものは欲しいと言わないと、その欲望をドライバーにして奮闘しないと自分の望む人生なんて手に入るはずがない。社会だって変わらない!

1人の当たり前はみんなの非常識、クレイジーかもしれないけれど、その当たり前は信じる人の数が増えれば、それは普通、常識に成り下がる。

つまり、だれかがはっきり言わないといけないのだ!

そういうわけで、ランチなに食べますかという話になったとき、ぼくは当然のようにイタリアンと答えた。

なにを笑っているんだ

たしかに、この国にイタリアンなんてものはない。世界中どこにだってあるはずの中華すらない。

中華料理と名乗る店(オーナーはもちろん華人)はいくつかあるが断じて中華ではない。

でもそんなことは関係ない。

ぼくはイタリアンが食べたいんや!

そうして侃々諤々のやりとりをへて、栄養士Aさんが自宅でラザニアを振舞ってくれることになった。見出し画像がそれ。

日本大使館の大使と夕食会、ロブスターのグリル…この国で贅沢なものをいくつか食べてきたけれど、ダントツで一番おいしかった。

この国で手に入るものだけで、ここまでのクオリティを出せるなんて…ぼくは感動しきりだった。

やはり欲しいものを求めて戦わないといけないんだと、現状で満足しようとするなんて悪しき風習は即刻捨て去るべきだというように、パラダイムシフトが起こりつつある。

※いただいた日本食は3人でああだこうだ言いつつも等しくわけました。遺恨は残りませんでした。めでたしめでたし。

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