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ぼうののう#2「運命-2020/10-」

昔、友人の話を聞いていた時、明確に自身の選択が招いている悲劇ばかりで、どうしても悲劇のヒロインのように見えてしまったことがある。誰かが言っていた、”結局は自分自身に全責任があるのだ”みたいな考えは私は嫌いで、ただ何かが沢山重なって、マイナス方向に考えてしまっているのかなと思っていた。相手が意外なことを言ったとしても、そういう人なんだなーと思わないようにしたい。何かあったのかもしれないし、何かに挑戦してみたのかもしれない。私だって、なんであんなことした?言った?って後でかなり反省するし。簡単にこの人はこんな人、と思いたくない。

あの頃、私にもいろいろあったのが、最近すごく落ち着いて、大切な人たちにいっぱい出会えたなぁと思っている。

ようやくフォレスト・ガンプを観た。

Netflixの作品情報に”優しい”と書いてあって、(もしかしたら求めすぎて幻覚を見たかもしれないけど)もうとにかく、優しい作品を見たい気分だったから、観ることにした。

なにが起きてもまっすぐでいる姿は私を落ち着かせてくれた。大変な出来事が沢山あるけど、フォレストを信頼できていたというか、安心して観ていられた。

運命。

会ったことのないおじいちゃんのこととか、社会のレールを踏み外したこととか、大なり小なり?、自分の運命に絶望する時期は私にもあって、でも結局必然とか偶然とかわからないし、そのとき自分がこう受け止めたいと思うように受け止めていくのが、私には合っているのかなと思う。何か起きている最中はそんなに冷静じゃないかもしれないけど、コロコロ変えちゃえばいいのかなと思う。

会ったことのないおじいちゃんは、子どもも動物も工作も好きで、生きていたらきっととても仲良しだったと思う。学生時代に無かった居場所があったと思う。そのおじいちゃんが居ないことが悔しくて、お風呂で泣くこともよくあった。ちなみに、初めて書いたモノローグもそのおじいちゃんについてのものだった。いまとなっては、もし会えたら、泣いて喜ぶより、責めるだろうな。煙草なんて吸ってんなよとか、別の病院行けよとか。実際それを書いていた。

そのおじいちゃんはここ数年、私に会いに来るようになった。かもしれないと思っている。どうしても、ふとしたとき、うちの愛犬のボス(ミニチュア・シュナウザーだけどミニチュアじゃないデカさ)に入り込んでいると思ってしまう。まぁ犬種的に見た目がおじいちゃんだからかもしれないけど、おじいちゃんに見られてる!っていう気がする時がある。

そうするとやっぱり、変なことしてられないなって、ほぼ元気なときは思う。あんまり変態な趣味は持てないな、とか。どうでもいいけど、小学生のとき、ワンピースのアラバスタ編を観ていた頃、幼馴染と一緒に、裸の女の子の絵を描いていた。どうしてもキツい子がいて、耐えられなくて、その子と3人でお風呂屋さんに行って、その子だけタオルがはだけて裸になっちゃうという微妙に性格の悪いシチュエーションのイラストを書いた。もちろん、その子のおっぱいが一番小さく描かれていたけど、実際にどうなったのかは、まぁまぁまぁ。

あと最近どうしても思ってしまうのは、罰が当たるかなってこと。このトイレットペーパーの芯をゴミ箱に入れなかったら、とか、ゴミ箱から逸れたティッシュを入れなかったら、とか、そういう瞬間に、あ、なんか悪いこと起きる怖いって思ってしまう。赤信号渡った時とか。

でもなんか、見られてるかもしれないぞってのは普通に楽しんでるし、なんか怖いなってのも、めんどくさいけどいいか!全然わからないけど、ある意味私の弱点かもしれない。一周回ってかわいいんじゃね的な。肯定しなくてもいいけど、ちょっと外から上から目線みたいな感じで、見守るイメージ。いいかもしれない。こいつまた!ってな。

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