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自分の特性についてのお話

最近ね、脳内ハードディスクがキャパオーバーしている時にこのnoteが役立っていることに気が付きました。
noteに書き出すことによって溜まったキャッシュがクリアされるみたいですね。

この度頂いている案件が正式に納期が延期になる事が決まりましたので、そう。脳内ハードディスクを整理しようと思った次第でございます。
目下書き出したいキャッシュは3つ。

いずれも先日のワークショップでの出来事や気付きです。

まずは1つ目として順不同になってしまいますが、わたくしの特性についてです。
ワークショップ関係ないやないかいっ!
とお思いでしょうが、2番目の一番容量のある「ギフトの可能性」というお話を書き出すために必要なんです。

では参りましょう。

わたくしの特性についてのお話


・幼少期から学生時代のわたし

学生時代は本当に成績は全てにおいて底辺でした。勉強は全方位壊滅的。
加えて運動能力も極端に低い。
何をやらせてもダメ。
体も小さく容姿が美しいということもなく…
そしてそういった事を小学校中高学年あたりには既に自認していました。

学校の先生方は大抵それが怠慢によるものと思っておいででした。
では、わたくしが本当に怠慢で努力を嫌うタイプたったのかと申しますと、事実はそうではありませんでした。
遡ること幼少期、2年制幼稚園に入園する前の事と記憶していますから年齢にして4〜5歳の頃。
わたくしはお絵描きが大好きでしたが実は工作や文字を描くのも好きでした。
もちろん就学前で習ったわけではありませんから、身の回りにある文字を見様見真似で覚えたのです。
始めは◯や✕なんかも含めた意味のない文字の羅列でした。
それを大人に読んでもらい、なんと書けているのかを知る。という感じで覚えたのです。
初めて書いた言葉らしい言葉は「あかいて」でした。
文字の並びが偶然言葉のようになったので読んでくれた叔母に大興奮で「すごい?すごい?」と詰め寄ったのを覚えています。
それからどんどん文字を覚え、幼稚園入学後には簡単な漢字や文章も書いていました。
小学校の頃は同じやり方で英語もだいぶ覚えました。
当時のわたくしにはそれが勉強に通ずるものだという認識はなくただ三つ上の兄がやっていることが面白そうでやっていただけでした。
そうして満を持して小学校に入学すると、まだ学校生活に慣れる為のレクレーションなとどしかしていないのに、憧れの宿題をやってみたくて母にお願いして宿題を出してもらいました。
国語の教科書を音読したり文字を書いたりしたものです。
ここまでは、このままその意欲がスクスク育てば頭の良い子が育ちそうと思いませんか?

残念ながら、就学後まもなくそのルートからは大きく逸れてしまいます。

当時の幼いわたくしには学校が何をするためのものかがよく理解できていなかったのです。
ただ遊びに行っているだけだと思っていたので授業中にお絵描きやお話してはいけないとか先生の話を注意深く聞かなければならないという基本的なことを理解していませんでした。

そうすれば勢い先生の印象は悪くなります。
加えて当時のわたくしは髪の毛が金髪。
自毛であっても先生はそれをよく思っていらっしゃいませんでした。
先生の当たりは日に日に強くなりある時ついに
「お前はかしわさん(障害児学級)に行きなさい!」
と言われました。
恐らく、集中力もなく話も聞けず、何をやらせてもできないくせに、底抜けに明るく楽しそうなのがお気に召さなかったのでしょう。
当然だとは思います。
ただ、障害児学級へ行け。というのはわたくしに対しても、その学級のお子さん達に対しても失礼だったのではないかと大人になった今、回顧します。

でもそれでも担任の先生の事を好きだと思っていたのですから本当に救いようもなく「足りない子」だったのだとも思います。
きっと担任の先生の事はかなりイライラさせた事だろうと思う。

でももし今自分にそのような子がいたらどう思うだろうかと。
自分が教育に携わったり子を育てるようになるにつれ
考えるようになりました。

わたくしは本当に害悪だったのか。

いいえ。違う。
ただ理解が及ばなかっただけ。

怒られたくてわざとに何かをした事など一度もない。
むしろ先生や親に怒られるのは望んでいませんでした。
怒られたくない一心でがんばるのだけど何故か方向性を誤ってより一層周囲の大人を苛つかせてしまう。

では何故理解が及ばなかったのか。

それは

言語情報の入力が苦手」

という特性に大きく影響されてるということを、わたくしは大人になってから気が付いたのでした。

当時の自分としては何をしたら怒られるのかがわからず、いつもハラハラしていた。
どこに埋まっているのかわからない地雷原を歩いているような気持ちでした。
その頃の自分を想うとき、いつもわたくしは胸が苦しく泣きたくなってしまうのです。

・自分の足りなさに気が付き始めた10代

小、中、高ととにかく勉強はまるでダメ。運動はもっとダメ。

なんとかその場を凌ぐ事で精一杯だった学校の授業。
感覚的には外国語で授業を受けているような理解力でした。

わたくしは勉強や運動もさることながら、要領も悪く。気付くとマイペースになってしまう為、同級生の流行りについていくこともとても苦手でした。
わたくしの小学生時代といえば漫画雑誌「リボン」が大人気でした。
当時連載されていた漫画は「ちびまる子ちゃん」「マリンブルーの風に抱かれて」「ハンサムな彼女」など。
当時の小学生女子は皆毎月リボンを読んでいて、発売日の翌日にはこぞって学校に付録を持って来たものです。

感の悪いわたくしは当然その流行りに取り残されており友人達の
「先月号のリボン返して〜」
などという会話を聞いても
「何故リボンの貸し借りを?そんなに特別なリボンなの?すごく貴重なリボンなのかな?」
などと考えていました。

そしてあるとき遂にその謎が解け、わたくしは漫画雑誌「リボン」の存在を知ります。
それさえ手に入れれば自分もみんなについて行ける。同じになれると喜んだのも束の間、発売日に購入してきた「リボン」なぜかみんなが話している漫画が一個も掲載されていないのです。
「何故だろう…。」といぶかしがっていると母が
それが「リボン」ではないことに気がつきました。

そう。わたくしが購入したのは「リボン」ではく「リボン」の姉妹雑誌だったのです。(泣)
落ち込むわたくしに見かねた母が書店連れて行ってくれ正真正銘ホンモノの「リボン」を買ってくれました。

「これでこれからはわたしもみんなと一緒になれる。」
などと思っていてのですが、わたくし何を隠そう遅読中の遅読。
発売日翌日までに網羅するなんてことはできず、とりあえず人気の連載だけチェックして行きました。
その後もコツコツ読み進めるもまだ全てを読みきらぬ内に翌月の発売日が来てしまう。
リボンに追われる日々が始まりました。

この頃から何故皆が一斉に同じものに興味を引かれるのかが不思議に思えてきたのです。
示し合わせたわけでもないのに何故?
そしてわたくしはそれについて行けない
「遅れた子」であるという自覚と後ろめたさのようなものを感じるようになっていきました。

・補い方に気付いた24才

それは遅ればせながら免許を取得しに教習所へ通い始めた24歳のころ。
学ぶ前から恐らく「運転は苦手だろう。」と思っていました。
なんせ足ではアクセルを、手でギアやハンドルを操作し、目で表示や標識を確認し、更に歩行者や他の車の動きを予想したり判断し操作するなど1度に沢山のことをしなくてはならないのですから、わたくしにできるわけがないと思っていました。
だから正直取得しても運転がしたいわけではなったのですが子供の頃から父には「これからは女性も免許を取った方がよいよ」と言われて育ったのと、通過儀礼といいますか、なんだか免許がないといっちょ前の大人じゃないみたいな、不完全体のように思われる偏見を感じることがあって取得を志しました。
人一倍できない自分だからこそオートマではなくマニュアル免許を選択したのですが、
この自分に対してもより大きな試練を課すというのは今でもわたくしの癖で、小学校の頃の面談で「ヤヨイちゃんは人の二倍、三倍やらせて下さい。そうしないと普通の子に追いつけない」と先生に言われた母が自宅学習で本当に二倍三倍やらせたのに起因しています。
風邪で学校を休んでも九九の暗唱をさせられついにはノイローゼになってしまったそうです。夜中に寝言で九九を叫んでいたと母は申しておりました。
ちなみにわたくし、そんなわけで今でも九九は言えません。
7×8以降は足し算になってしまうのです涙
大人になって色々やってみましたが一向に身につきませんでした…。

ここでちょっと閑話休題になりますが、皆さん小学生のころ漢字ドリルや計算ドリルってやりましたよね?
もちろんわたくしもやりました。
今思うと簡単な足し引き算ってどちらもそう変わらないのに、その当時はどうしても引き算が嫌で。どうにかして引き算をやらずに済む方法はないかと頭をひねったわたくしは引き算ドリルの「ー」に「|」を足してすべて足し算にしてしまったのです。
それはそれは丁寧に「|」を書き足して、時間をかけて足し算を作りました。
ちょっと考えればすぐにばれると容易に想像がつきそうなものですが、当時のわたくしにはそれがわからなかったのです

もちろん先生にこっぴどく叱られました。
「わたしのだけ引き算じゃなくて足し算だったんです」
で通用すると思っていた辺りがやはり…足りないなぁと思います。
今となっては笑い話なんですが当時の幼いわたくしは真剣だったんです。
怒られたくないといいつつ、そんなことしちゃってたんだなとは思いますが(笑)

話を戻しますね。
運転免許、学科の方は意外にもすんなりいき「このままうまくいくのでは?」と思いきややはり実技のほうが難しく
苦労したのはS字クランク。
どうしてもうまくいかず、それま で隙間時間でもまめに通っていたのに数日休み、もう教習所に行きたくない気持ちを押し殺して向かった教習所。
車に乗り込んだ後、教官が少し話し始めたのでどうしてもできない。自信がない。と吐露すると、その教官が
「たしかにトウドさんはほかの人より時間がかかるかもしれない。でも人よりいっぱい練習する分人より上手になると思って頑張ろう。」と励ましてくださり、その日は具体的なコツを教えてくださいました。
「あの縁石の角がサイドミラーの下に来たらハンドルを右に二回切って…。」
といった具合に。
わたくしにとってはとても分かりやすくそれまで一度としてできなかったS字クランクが一発でできるようになりました。
しかしその教え方は応用が利かず実用性はありません。
おそらくその先生はわたくしに無理にでも「できた!」という成功体験をさせたかったのではないかと思います。
教官同士が仲の良い教習所で誰ともつるまない寡黙な先生でした。
今でも感謝しています。

わたくしは「できた!」という興奮と共に頭にいっぱい詰まった情報を抱えきれず表現があまり適切ではありませんが、「吐き出したい」という感覚があって教習終了後すぐさま教習所のカフェテリアに直行し、今教えてもらったコツをすべてイラストに起こしました。
全てを描き終えるとホッとするようなすっきりするような、そんな感覚に囚われました。

その時ふと思ったのです。
今までにもこのようなことが度々あったと。
それはいつも情報を抱えきれなくなったとき。
わたくしは無意識のうちにイラストに起こしていました。
でもそのS字クランクの件もそうですが、ではその起こしたイラストを見ながら復習するのかといえばそうではなく

「イラストとして書き出す。」

ということ自体が私にとって重要なのだと気が付いたのでした。
なんだか雷にでも打たれたかのような衝撃的な発見でした。

・思い出にする。

思い返してみると幼少期からこの書き出しに助けられてきたのだと気が付きました。
最古の記憶は小学校一年生。
ピアニカのテストでした。
わたくしはどうしても合格することができませんでした。
合格するまで帰宅することを許してもらえず
先生の不機嫌なお顔が一層気持ちを焦らせました。
今思い返すと、同じことを繰り返していてもできるようになんてなるはずがありません。
なぜできないのかをよく考えてあげるべきだったのでは思いますが、その当時はわたくしのように少しできない子のことは一様に「知恵遅れ」と呼称して特段、発達支援のようなサポートはありませんでした。
できて適齢のことがどうしてもできないのであれば、やはり何らかの特性がその子の足を引っ張っている可能性があります。ですがその頃はそこまでの支援はなかったのです。

わたくしと一緒に帰りたくて待っていてくれた友人が見るに見かねて自分の赤い折り紙にカタカナで音階を書いてくれました。
そしてそれを見ながらピアニカを引いてみるとなぜかすっとできたのです。
不思議でした。でもその当時のわたくしはとにかく帰れる喜びでそんなこと気にも留めなかったのですが、おそらくこれも自分の中で

「文字情報が映像情報にすり替わった」

瞬間だったのです。
今までの数々のそういった経験を思い出しわたくしの中ではこの現象を

「思い出にする」

という風に呼んでいました。
情報を映像として思い出にしてしまえば覚えられるのだ。
足りない部分をほかの能力で補えばよいのだと。
気付いたのでした。
そしてできればこれを、幼いころに気付きたかった。
もしもタイムマシーンがあったら今から幼い頃の自分の所へ行き教えてやりたい。さすれば、あんなに苦労をせずに済んだかもしれないと思うと、幼いころの自分が不憫に思えました。
自分で足りないものを補おうと一生懸命足りないなりに頑張っていたのだと。それでも周囲はわたくしの事を怠慢だとか知恵遅れだとか、馬鹿にすることに一生懸命だったではないかと。思い出すにつれ涙が溢れました。
わたくしは心の中で幼い自分をぎゅぅっと抱きしめました。
「ひとりでよく頑張ったね。」と
「足りない自分」を受け入れた瞬間でした。

・メタ言語能力

時を同じくして、保育士試験の勉強をしていた友人から
「君みたいなひとはね、メタ言語能力が低いんだよ。」
と教えられました。
メタ言語能力とは言語を意識的に観察する能力だそうで、深い意味で言語を理解するというようなことだとその彼女は言いました。
人が話しているのを聞いていても言語を音として聴力では聞いていても、情報としては吸収できていない状態だと説明してくれました。
今想うとメタ言語能力の定義とは少し離れているように思えますが、その当時は「そうか。わたしはメタ言語能力が低くて理解力がないから、他の能力で補っていたのかもしれない。」と納得したのでした。

そして発達について調べていくうち自分のもう一つのある特性にに気がつきました。
ここまでお読み下さった奇特な読者の皆様の中にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。
わたくしどうやら「エピソード記憶が強い」のです。
エピソード記憶とは長期記憶の1つで脳に保存され、原則一生消えずに残る、いわば思い出のことです。
なんとなく人よりよく憶えていることがあるなぁという自覚はありました。
これはわたくしの祖母も同じでしたからおそらく祖母に似たのだろうと思いました。
自分の中ではビデオテープを再生するような感覚で思い出すことができます。
そのときの空気感。感情。リアルに思い出すことができるのです。
おそらくこれが言語情報の入力を補うのに役立っていたのです。
ただエピソード記憶には感情もセットになっているため、とりわけ悲しかったことや嫌だったことの方が記憶に強く、そういったことを口にすると母に「嫌なことばかりよく憶えていて…。」とか「しつこい子ね。」といわれることがあったので自分としては「憶えていても口にはしない方がいいのだ。」と思っていました。

そうして少しずつヒントを拾い集め「自分取扱説明書」ができあがってきたのです。

・今でも苦労が絶えない

と、このように自分の経験や知見から自分の特性とその対処法を学んで来たわけですがもちろんそれで全てが解決できるわけではありません。
例えばスケジュールの管理。子ども達のスケジュールを忘れぬようカレンダーに書き加えようにも読み上げる時点で既に間違えているので当然記入も間違える。
なのでカレンダーをみて確認するという作業は意味をなしません。
とりわけカレンダーのような縦と横の表のようなものは読み解くのが本当に苦手で何度も指さし確認するのですが自信が無いので身近に入る人にWチェックしてもらうなどしています。

子ども達が成長して学校に通うようになるといよいよ緊張感を感じていました。
「わたしが間違えたら子どもが恥ずかしい思いをするかもしれない」
と思っていたからです。

常に一定の緊張感を保持して生きていて、ようやく人並と行った所だと思います。
しかし体調の悪いときや疲れが溜まっているときなどはこの緊張感が維持できず失敗してしまうことがあります。
そのようなときは一気に子ども時代に引き戻されたような感じがして、そこはかとなく落ち込んでしまいます。
こんな自分が生きていて申し訳ないとさえ思えてくるのです。
一生懸命一生懸命がんばって普通の人のフリをしていたけれど本当は全然できない「足りない子」なんだと。
そのようなときは立ち直るのにかなり時間を要します。
幼少期の様々な経験からいわゆる「自己肯定感」というやつが低いのが原因だと思います。
傷ついた肯定感を、自尊感情を自ら一生懸命リカバリーしながら生きてきたけれど限界があるのです。

文章を書くのが大好きだった少女は父にお手紙を書きました。
毎日お仕事をがんばってくれる大好きな父に
「まいにちおしごとたいへんだけろ がんばってね」
と書きました。
家族はそれをみて大笑いしました。
なんなら時が経っても思い出話の中で
「だケロって…笑」
といって笑っていました。
失敗がかわいいと思ったのかもしれません。
でも子どもの様子がそれを許容していないなら必要以上に笑うのはいたずらに子どもの心を傷つけるだけなのです。
ましてや就学前の50音も習っていない子の書く文章ならば間違えて当然なのですから、笑わずに教えてやったらいいのです。
そのように幼さや知能の低さからしてしまう失敗を馬鹿にしたり、笑ったり、怒ったりしても何の効力も無いのです。
それから段々わたくしは文章を書くということに自信をなくしたように思えます。

・わたくしを救ってくれた義父の言葉

それは我々夫婦の結婚式の時でした。
両親の挨拶の時、義父はわたくしのことを「なんて賢い子だろうと感心した。」というエピソードを話してくれました。
それは初めて義実家の稲刈りを手伝いに行ったときのこと。

山の斜面にある義父の田んぼには機械の入れない箇所が多く、そういった所はノコギリガマで手刈りをして大きな束を2つクロスしてその根元の方をワラで縛ります。義父はわたくしに手本を見せてくれました。
「こんなんしてぇ、束ねるんだけどぉこれは難しくてぇ、うちのお母さんもできないしぃ、手を痛めるから無理してやらんでもいいからぁ」と。
しかしわたくしは義父の作業をみてある作業に通ずる。もしかしたらできるかもしれないと思いやってみることにしました。
自分の思い描いたとおりに実行してみると、とてもうまくいきました。
父はわたくしの束ねた稲をみて驚いてわたくしに尋ねました。
どうやってこんなにきつく結ぶことができたのかと。
わたくしはこれは「着物の帯を結ぶときと同じだと思った。」と話しました。
着付けと申しましてもわたくしが思い浮かべたのは阿波踊りの着付けでした。
実は子どもの頃から長年阿波踊りをやっていて大人になってからは着付けもやっていたのです。
阿波踊りの着付けは踊っている最中に乱れることのないようきつくする必要があります。
きつくと言っても踊り子さんの気分が悪くなってしまわないようコツがあるのです。
中でも帯紐はかなりぎゅうぎゅうと締めるのですが、左右に引っぱってもなかなか締まりませんから片手に紐を持ち反対の手で帯を押さえて帯に対して垂直に引っぱりますと力の無い女性でも簡単に締め上げることができるので、それを応用させれば稲も束ねられるのではと思ったのでした。

義父はそれを聞いたとき「なんて賢い子だ」と本当に感心したのだと話してくれました。
わたくしは「賢い子だ」などと褒められたことなどありませんでしたから驚くとともに、今までがんばってきた努力が報われるような、そんな想いでした。

・リベンジの子育て

わたくしが子をもうけたのは、自分に対する「育て直し」の意味合いが強かったと思います。
もし、自分と同じような子が生まれたら、わたくしはその子の特性をよく観察し適切なサポートをする。と心に決めていました。
そして自らの子どもの頃にしてもらいたかった育児、理想の育児を実行したかったのです。
若い頃はよく母に「もっとこうして欲しかった」とか「こういうことはしないで欲しかった」と伝えましたが、「子どもを育てたこともない人間が文句を言うな。親だって初めての育児で正解がわからない中一生懸命やってんだ。そんなに言うなら自分でやってみろ。お前の子育てが楽しみだ。」と
言い返されてしまい話になりませんでした。
母の言うことは正論です。母も一生懸命育ててくれたのは重々承知の上でした。それでも伝えたのは、受動的になってばかりおらずに伝える努力もしなければ文句も言えないではないかと思ったからです。

想像に反して生まれた我が子達にはハンディキャップはなくむしろ知能指数は高めの方だと思いました。
長男氏は非常に育てにくく苦労しましたが、わたくしは自分の子育ての信念を貫き通しました。
子育ては長く、1つ1つ拾っているときりが無いようにも思えましたが根気よく子どもに付き合い信念を貫いたのです。
子ども達が小さい頃のわたくしは常に睡眠不足でガリガリに痩せていましたが、それでも信念を貫くわたくしの様子を間近でみていた母は遂に
「わたしもこうやって育ててあげればよかったのね。あの頃はあなたの育児が楽しみだなんて思っていたけど今こうして育っていく孫達をみていると、自分はもったいないことをしたんだと気が付いた。時は戻せないのにね。あなたは本当にすごい。」と猛省してくれました。
それを聞いてわたくしが嬉しかったかと言えばそうではありません。
わたくしはあくまで自分に対するリベンジを誓ったのであって、母に復讐がしてやりたかったわけではなかったからです。
母はカッとなると言ってはいけないことを口走ってしまう所もあるけれど、反省するときはこちらの方が恥ずかしくなるくらい反省の弁を言葉にする素直さがあって。そのようなところはわたしにとっての母の好きな所でもあります。

・あとがき

幼い自分をハグしたあの日のことを今でもよく憶えています。
全てを理解したわたくしはぐしゃぐしゃに泣いているのに、幼いわたくしは幸せそうに笑っているのです。
何もしゃべらないのだけど「ありがとう」と言っているようにも思えました。
幼い頃、母に怒られるとよくベッドに潜り込んで泣いていました。
そして誰にともなく「助けて」と信号を送っていました。
幼いながらになんとなく理不尽に怒られている。怒られ方が理不尽だと感じていたのだと思います。そして大人になったわたくしがその信号をキャッチしたのではないかと思うときがあります。
あの時一生懸命救難信号を送ってくれたからわたくしは自らの特性とその対処法に気付くことができた。

変な話ですがそんな風に感じるのです。

あの時いっぱいがんばってくれてありがとう。
今でもまだ大変なときあるけどあなたのお陰で今のわたしがあるのよ。
生まれてきてくれて、がんばって生きてくれてありがとう。大好きだよ。
とあの頃の自分にこの場を借りて伝えたい。

今回ひときわ長いお話でした。
まだ書き足りない部分があるような気もしますがおしまいにします。
ここまでお付き合い下さった皆様ありがとうございます。

こんなわたくしですが今後ともよろしく願い致します。


TOUDO YAYOI Illustration





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