今回の舞台で改めて役者から気付かされたこと
なぜ「今回の舞台は自由にやりたい事をやってください」という問いかけが、いつもの稽古以上に皆を苦しめてしまっているのか
いつも舞台を作っている段階で役者の皆さんは悩み苦しんでいる。
それは役作りだったり、コミュニケーションだったり、自分の内面的な問題だったり様々あるが、今回は自己内面との葛藤がかなり色濃い舞台作りになっている。
"自由に"という問いかけがそうさせたのか。
自由にという言葉は、いきなり何もない大海原に放り出し、頼るものは自分しかない状態にするのかも知れない。
その結果、半ば強制的に思考のベクトルが自分に向き続けることになり、自分自身に苦しめられている感じがしている。
自分の姿を鏡で見続けると別世界に吸い込まれそうな得体の知れない不安に駆られる感覚に似ているような気がする。
普段主観的な視点しか持たない自分が、突然鏡によって第三者の目が現れ戸惑い混乱する。
「この目の前にいる人はだれだ、この体は誰のものか、自分とは何者か、自分とは本当に存在しているのか」
全員がそうなのかはわからないが、少なくとも私が見てきた限りでは、自分に向き合わなければならない状態の人が、明るく活発になっている姿を見たことがない。
では、なぜ自分という人間に向き合わないといけなくなると苦しいのだろうか。今まで感じてきたあらゆる苦しみや葛藤に向き合っているからだろうか。
だとしたら、なぜ自分に向き合うこと=”苦”をみつめることになるのか。
苦と仏教
私は仏教が好きなのだが、仏教には四苦という大きな苦のカテゴリーと、すこし具体的な4つ苦を指す言葉がある。
四苦八苦の語源とも言われているが、私の解釈では、仏教的人生観は人生とは苦であり、幸せに感じることもまた、苦の相対的状態でしかないということである。
これを受け入れてみるとしっくり来る。
自分と向き合うということは、主観の世界にどっぷり入っていくので相対化の作業がない。
さっき”苦の相対的状態”という言葉を用いたが、苦は人生に常に存在し、一つの状態が長く続くとより色濃く表出する。
言い換えれば、固執した考えから抜け出せない限り苦が牙を向き続ける。
だから仏教には無我と、諸行無常という考え方がまた同時にあり、あらゆるものは相対的で関係性によって成り立っていて、常に変化し続けるものであると悟っているのである。
それを受け入れると、あらゆるものが相対的で常に変化を伴うので、苦にしがみつく状態から解放されると私は考えている。