秋田・五城目コモンズにて災害に強い地域づくりのための研究事業を展開します
まず、最初に記事を書くにあたって
五城目町地域活性化支援センター(BABAME BASE)という地域起業家などが多く入居している廃校活用したオフィスに、私も仲間入りさせて頂いてから間もなく半年が過ぎようとしています。そこでのお仲間な皆さま(シェアビレッジ(株)、(同)運動)や、秋田市のNPO結いネットさんと一緒にコンソーシアムを結成、令和6年7月の秋田県豪雨水害の経験をふまえ、2023年度休眠預金等活用法による「復興支援団体の事業基盤強化・事業化推進(資金分配団体・一般社団法人RCF)」に採択されておりました。これを契機に、地域のコモンズやソーシャルキャピタルを活かして災害に強い地域となることを目指し、2024年5月より新しいプロジェクトが始まっています。
(プレスリリースはこちら⇒https://www.atpress.ne.jp/news/396539)
去年の五城目町を襲った豪雨は町史に残る被害を残し、今年の夏も再び大雨被害が起こるかも…と、はらはらした町民の皆さんも多かったと思います。また今年被害のあった秋田・山形などでの被災状況から、私も「ついに東北も雨の降り方がこれまでとは全く変わってきた…」と強く感じた夏でした。河川や下水道などインフラを整備することにより豪雨被害から暮らしを守る様々な対策が必要…というのはもちろんですが、それだけではもはや不十分なのではないかと感じています。では我々はどんなふうにこの気候の変化に向き合って暮らしていくべきなのでしょうか。
この問いに、真正面から取り組もうとしている本プロジェクトメンバーの仲間に加えて頂き、私はこちらの研究事業を担当しています。一般的に研究予算は、日本学術振興会の科学研究費助成事業(科研費)や科学技術振興機構(JST)の各プログラム、(独)環境再生保全機構の環境研究総合推進費などといった資金源から確保するのが通常な中、町の仲間が自ら休眠預金制度を利用して研究予算を引っ張ってきて、この熱意はすごい!と思いました。
本プロジェクトは自然災害からの復旧のプロセスに着目することとしています。さて、まず復旧のプロセスに必要なこととしてよくいわれるのは、自助・公助・共助があげられるのではないでしょうか。
自助とは、災害が発生したときに、まず自分自身の身の安全を守ることです(尚、この中に家族を含むかどうかは一貫してません(飯田2021))。
公助は、市町村・消防・県・警察・自衛隊といった公的機関による救助や援助を指します。
共助とは、地域やコミュニティといった周囲の人たちが協力して助け合うことをいい、共助を担う主体は、家庭・家族、近隣、ボラン ティア、地域コミュニティ、地域組織、非営利団体など、その時々の時代の文脈に従って社会情勢や政治状況の影響を受けながら変化してきました。( 尚、主に福祉分野では自助・共助・公助・互助と4つに分けて使われたり、共助と互助が互換的に使われたりしていますが、災害分野では互助一般的には使われてないので、この記事では含めないことにします。)
今回の五城目町の被災では、被災した地元企業や地域起業家が、行政機関や公的機関と情報共有しつつ、公助や共助にて(やりたくても)なかなか手が回らない支援内容を提供しているケースが沢山ありました。また、住民自らの意思で必要と思われる事柄に対し自主的に提供した支援内容も多くありました。そして、その動きは五城目町だけではなく他の市町村でもみられていたと感じています。
これらのことから、ビジネスを通して社会課題の解決に取り組む地域起業家が現れることにより、災害時において地域起業家の方々が、既存のネットワークと日ごろの社会課題への取組みをふまえ、民間企業の方々も自らが先導し災害に強いまちを創っていこうという流れが出てきていると私は感じています。また、町内の起業家だけでなく、これまで町に仕事や訪問者として関わってくれていた企業からは、寄付金やふるさと納税という形で復旧のための多くの資金を提供して頂きました。
これらの動きをふりかえると、災害からの復旧には自助・共助・公助だけでなく(あえて名前をつけるならば)民間からの支援活動である「民助」という動きが復旧を支え、それが既存の3つの助では(やりたくても)なかなか手が届かなかった支援を提供すると共に、復旧のための足取りをスムーズにするための重要な役割を果たしていたと考えています。そして、これから先の時代には気候変動により自然災害の規模が大きくなり回数も増えてくる流れにある中で、私はこれから重要性が増してくるのが「民助」ではないかとも考えています。
尚、民助という言葉を提案するにあたって留意したいことが一つあります。1990 年代までは共助の担い手の一員として「企業」が含まれてましたが、2000年代半ば以降は共助から除外されてきた経緯があります。この理由として、経済状況や企業のあり方が変わって終身雇用慣行や企業内労働組合が衰退し、 企業が継続的な関係を構成する主体とみなされなくなったことが挙げられています(飯田 2021)。確かに、とある一つの企業の動きだけに着目するならば、地域に根ざす大きな組織的な柱として期待するには、企業活動の本来の目的・在り方には即していないように思います。なので民助を捉えていく際には、もっと企業や起業家の考え方・動きに対して、個々で捉える・ダイナミックな集合体として捉えるという、双方の視点を持ちながら考察を進めていきたいとも思っています。
加えて別の視点から心に留めておきたいのは、民間からの動きの活発化という点について、私が以前参加した世田谷のまちづくりの視察(詳細は私のこちらのnote記事をご覧ください⇒視察記録:世田谷のまちと暮らしのチカラ ―まちづくりの歩み50年―|高橋今日子/Kyoko Takahashi (note.com))で、「まちづくりの現場は行政が計画を提案して市民から意見をもらう時代から、住民が自ら計画を策定し行政が意見を出す、行政参加の時代を迎えている」(小柴2022)という指摘もありました。ここの視察で感じた大事なことの一つは、都市部だけでなく日本の農山村においても、企業や住民自らがまちをどう捉え変化させていったらいいのか、自分たちで考え行動するフェーズに入っているからこそ、今回の研究事業で捉えようとしている自主的な民間からの復旧に対する考察が重要になってくるのではとも考えています。
さて、実際の研究事業を進めていくにあたって、地域における研究者の役割についても書いておきたいことがあります。地域での研究事業と言うと、大学が研究資金を獲得して地域で調査・研究を展開し社会実装を目指すもの、地方行政に対して有識者として研究者が意見提言を行うものなどがありますが、今回のこの研究事業は全く発端が違います。それはどういうことかと言えば、大学がない町だけれど町の人の強い意志で研究資金を確保し、町の人たちから「こういうものを知りたい・考えたい」という強い要望を研究者に伝えられて、町の方々と町に関わる研究者たちがお互いの立ち位置や目線を合わせながら、自由な意志と発想に基づいて展開する事業だということです。つまりこれは、単なる民学連携ではない、地域の人たちも研究者も自らの意思で共に学びあうプロジェクトだということです。
そして、この事業の重要な位置を与えられた研究事業に対し、コンソーシアムのメンバーに言われたことは、「研究者が入ることで、災害に対する復旧活動から地域が経験したことを再考し捉え直すことで、五城目らしい町のレジリエンスを高め方が見えてくるのではないか」ということでした。大学の研究者というと、地域の人たちからは遠い存在で、大学にいて何か難しそうなことを教えている人…というイメージが強い中、ここの町の人たちは研究者は自分たちの行動・活動を整理して次に進むための「地図」を描く人というような認識があると私は感じています。このような地域からの真っ直ぐな眼差しを頂いて、そこに応えられるだろうかという不安と誤魔化しがきかないプレッシャーはあるものの、地域に研究者が在ることの意味を私自身が捉えるべく本事業を展開できれば…と思っています。
さて、それではまず我々が深めるべきところは何なのか、五城目町の普段の地域のあり方と災害時に強く発揮された地域の力を洗い出し、どのように言葉として整理し表していくのかメンバーとブレストを行いました。
BABAME BASEにある黒板(元小学校だからこその素敵な備品!)を使いながら思考の整理をしたのですが、これがすごい良かった!ディスカッションの時に色々みんなで書き込みながら思考を整理できるのはもちろん、板書をしばらくそのまま残していたのですが、訪問者の方々が来るたびに良いアイデア頂いて書き込みが増えていき、更にはコメントのメモが黒板に伝言板のように貼られていたり、みんなの意見が自由に展開された掲示板のようでした。こんな風な黒板の使い方は想像していなかった!
そんな過程をへて、一旦言葉の定義や思考整理をするためにまとめたのが以下です。そしてコンソーシアムのメンバーは、単に論文にして発信していくのではなくて、五城目発の研修事業とツーリズム事業へ展開したいと考えています。
研修とツーリズムを通じて、外へ私達が整理したこと・考えたことを外へひらくことで、きっとまた更に見えてくることがあるだろうし、学び合えることが沢山あるはず。そんな期待を込めて、まずは文献レビューと論点の整理をしていきたいと思います。
研究事業を始めるための議論の出発点
さて、研究事業の中で、本プロジェクトのメンバーが興味をもったのは、「災害からの復旧のプロセスに地域の『コモンズ』と『人々の助け合い・気遣う関係性』が、災害からの被害を極力少なくし、復旧をスムーズに進めたのではないか。だからこれら二つがどのように機能したのか整理し、どのように今後発展させれば良いのかを知りたい。」ということでした。災害からの復旧を考えた時、公的機関(市役所・役場・社会福祉協議会など)や非営利組織(NGO・NPO)などからの復旧活動が大きく寄与するのは当然ですが、この「コモンズ」と「人々の関係性」は重要な役割を(五城目町のケースでは)担っているのではないかと私達メンバーは考えています。
コモンズに対する既存文献はもちろんあるものの、コモンズをより広くとらえた「社会的共通資本」の方がアカデミアでの蓄積が多いと感じていました。そしてそれらを整理して今後の議論を展開する必要があるように感じます。また、「人々の助け合い・気遣う関係性」は、メンバーと話をしていると「ソーシャルキャピタル(Social Capital、日本語では社会関係資本とも言われています)」(と社会ネットワーク)の話として一旦捉えるのがいいのではないかと私は思いました。そして、アカデミアではコモンズはコモンズの議論で、ソーシャルキャピタルはソーシャルキャピタルの議論で完結しがちでしたが、五城目町の復旧については、我々はこのコモンズとソーシャルキャピタルが多様な動きを果たすことで、町史に残る災害から多くの人が復旧していく足取りを支えたと思っています。
言葉の整理:まず「社会的共通資本」と「コモンズ」について
ここで、色々な言葉が出てきたので一旦整理して記載しておこうと思います。
社会的共通資本とは、「一つの国ないし特定の地域に住む全ての人々が、豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的・安定的に維持することを可能とするような社会的装置」(宇沢2017)とされています。社会的共通資本は、自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができるとし、自然環境は大気・水・森林・河川・土壌などが入り、社会的インフラストラクチャーは道路・交通機関・上下水道などを指し社会資本とも呼ばれています。制度資本は教育・医療・金融・行政などを広い意味での資本と捉えるものです(宇沢2017)。
これに対して、我々が興味がある「コモンズ」は、ある特定の集団もしくはコミュニティにとって特定の利用の規制がされている資源や場所を指すのが元々の意味です。1968年にギャレット・ハーディン(Garett Hardin)が米国の科学誌Scienceに寄稿した「共有地の悲劇(The Tragedy of the Commons)」を契機にして、その後コモンズに対して多くの議論が起こり、共有権を分割して私有制を導入し不確実性を減少させるという議論と、国家権力による統制を行うという議論も展開されるなど、数多くの研究がなされてきました(宇沢2021)。伝統的なコモンズは、大気・森林・河川・漁場・灌漑用水など多様で、社会的共通資本の概念に含まれますが、コモンズを特徴づける重要な性格は、その組織・管理のあり方で規定されています。つまり、コモンズは(例えば国家権力を通じて実施されるといったものではなく)コモンズを構成する人々の集団ないしコミュニティから信託(Fiduciary)のかたちで管理されているのが特徴とも述べられていました(宇沢2017)。よって、利用の仕方や維持管理についてルールをもち、資源の維持管理が有効に行われている場合が多いという反論が、農学、資源学、社会学、人類学、政治学などから行われコモンズ論が出発し、1985年に米国アナポリスにおいて初めて包括的な研究会議が開催されたことを契機に、コモンズ論が学際的な研究分野で議論されるようになりました。
コモンズを捉える際に重要な視点を提示しているのが、2009年にノーベル経済学賞を受賞したオストロム博士(Dr. Elinor Ostrom)です。オストロム博士は、著作「Governing the commons」の中で「コモンズの悲劇」が必ずしも生じていないことに考察を深めながら、コモンズを社会性の追求と個人の利益追求の衝突という社会的ジレンマを解消して、コモンズの自治管理が上手く機能する仕組みがあると捉えました。そして、その自治管理が機能する条件として、以下の8つのPrinciplesをあげています(Ostrom 1990)。
コモンズの境界が明らかであること
コモンズの利用と維持管理のルールが地域的条件と調和していること
集団の決定に構成員が参加できること
ルール遵守についての監視がなされていること
違反へのペナルティは段階を持ってなされること
紛争解決のメカニズムが備わっていること
コモンズを組織する主体に権利が承認されていること
コモンズの組織が入れ子状になっていること
尚、コモンズについて詳細は、森貴一さんという方が書いた素晴らしい文献レビュー記事がnoteにあったので、こちらをシェアさせてください。⇒https://note.com/dutoit6/n/naa142adcf213
上記のレビュー記事の中に示されていますが、オストロム博士は、著作の中でコモンズを「commons pool resource 」と記載して論じています。これに対しEsteva(2014)は、資源は配分されるのが前提とし、 resource はコモンズの反対語なのではないかと述べ「コモニング、すなわちコモンズムーブメントは、"オルタナティブな経済"ではなく、"経済のオルタナティブ"である。(commoning, the commons movement is not an alternative economy but an alternative to the economy (Esteva 2014))」と指摘がありました(森 2022)。
また、「Bresnihan and Byrne(2015)は、実際の現象として起こっているコモンズは、『私たちの暮らしをより豊かに』『やりたいからやる』といった、より個人的な態度に立脚する実践として位置付けられるのではないか」というの指摘もあります(森 2022)。そしてさらに、コモンズに対する議論を発展させて↓
という引用をふまえ、コモンズは関わるメンバーやグループ、更にはその外側との「関係性」そのものもコモンズとしても捉えられるのではないかとの指摘もあります(森 2022)。
よって、(社会的共通資本の宇沢の定義にある自然環境・社会的インフラストラクチャーといった)目に見えるカタチとして在るコモンズだけでなく、(制度資本のような)関係する人々がそれをコモンズだと思い行動し存在するコモンズもあると考えられるように思います。そして更に言うならば、目に見えるカタチとしてあるコモンズでさえ(上記の引用にもあるコモンスペースの記載にもある通り)、参加するグループやコミュニティの努力(effort) から生まれてくるものなので、オストロム博士の指摘は「いかに管理し持続ていくのか」という視点でのPrincipleの提案であったのに対し、その後の議論ではコモンズの生成・管理・持続に関わる動機・メカニズムに注目している議論が多いことをふまえると、コモンズに対しては、内発的動機(自分の内側から湧き上がってくる「コモンズを生み出したい・関わりたい」という気持ち)があるという視点が重要なポイントな気がしています。
よって、もう少しすっきりと言い換えて(私なりの仮説を立てて)言うならば、ハーディンの「コモンズの罠」の議論から今に至るまで、ずっと我々が議論していたのは、コモンズと我々はどのような「関係性」を持ちたいのか・持っているのか・持つべきなのかという、コモンズ自体とコモンズに関わる人との関係性の議論だったのではないかということです。
整理すると、ハーディンの「コモンズはそのまま放置すると侵害されてしまうので私有化か国有化するべき」という議論も、オストロムの「コモンズを管理するやり方は実はあってPrincipleがある」という議論も、その後のコモンズの議論の流れも、議論している視線の先には、コモンズとどのような関係性を築くと、自分たちを支えることができ、得たいものを生み出し続けることができるのかということを議論していて、最後に引用したStavridesからは、コモンスペースが関係性そのもの(Stavrides 2015, p.11)という指摘が象徴するように、「コモンズとそれとの関係性」が議論の核なのではないかと思っています。
そうであるならば、次にソーシャルキャピタルを捉えていくことにより、コモンズと関係性の議論の解像度をもう少し上げられるのではないか。という気もしています。また、この後捉えようとしているコモニング・コモニング力についても、コモンズを動的に捉えている言葉であることから、そこには人の動きが関係しているはずで、ここからもまた見えてくるものがありそうです。
次の言葉の整理:「ソーシャルキャピタル」と「資本」について
ソーシャルキャピタルについては、特に日本の中では「人々の関係性やつながりを資源として捉える考え方です」などと単純に捉えられている解説が多く目立ちます(例えば、稲葉他(2002)など)。この捉え方が分かりやすいために、日本ではこの定義に従い書かれているウェブ記事や報道、修士論文などが沢山見受けられます。私はそれではソーシャルキャピタルの捉え方の視野が狭いと思っていて、だから事例研究などに進んだときに考察が広がらないと思っています。
一方で、社会ネットワーク理論の日本における第一人者の金光淳先生が、社会ネットワークとソーシャルキャピタルの関係性を「社会ネットワークを基本に、社会的効用をもつ特殊な関係資産として資本論的に展開されたものがソーシャルキャピタル」(金光 2010)と定義している通り、社会ネットワークとソーシャルキャピタルを整理し分けて考える必要があると思っています。
更に言うと、日本以外ではソーシャルキャピタルの定義は、「直接・間接的な社会ネットワークを通して、個人が得ることのできる資源(例:富、力、モノ、社会ネットワーク)(Nan Lin 2009)や、「関係性からくる利用可能な善意であり、その源泉はアクターの関係の構造と内容に依存する」(Ader and Kwon 2002)と捉えられている論調の方が根強く、こちらの方が実社会でのソーシャルキャピタルに対する理解に即していると思っています。
またAdler and Kwonは、彼らの論文の中でソーシャルキャピタルを捉えた概念モデルを下記の通り提示していました(Adler and Kwon 2002)。
ここにもある通り、まず社会構造(Social structure)の中に社会関係(Social relations)が含まれ、その社会関係から「機会」・「動機づけ」・「能力」が発生し、ソーシャルキャピタルの利益とリスク(この「リスク」というソーシャルキャピタルのネガティブな側面も捉えていることも重要と思います)から(矢印で挿入されているTask and symbolic contingencies, complementary capabiities)をへて新たな価値が生まれ、再び社会構造に内在化されているというところまで捉えられている図となっています。
また、Nan Linの定義では、社会ネットワークを通じて生み出されたソーシャルキャピタルから得られる資源の中に「社会ネットワーク」自体も含まれていました。確かに実社会での経験を振り返ってみても、既存の自分たちの社会ネットワークから新たなネットワークが広がって新たな機会を獲得していく…ということは往々にしてあり理解できます。また(日本では多用されている定義の)ソーシャルキャピタルはこの部分により強く興味をもって定義づけられているとも感じるため、今後五城目町のソーシャルキャピタルの議論を整理する際には、社会構造に含まれる社会ネットワークを指しているのか、ソーシャルキャピタルから発生した社会ネットワークを議論しているのか留意しながら進めたいと思います。
さて、ここまで言葉の定義を整理してみて気になったのは、「資本」や「キャピタル」という表現です。ここへきて、資本論って?とか、そもそも資本はどう捉えたら?という思いが…。そうじゃないとこから先の議論でつまずきそう…な予感もします。なので、一旦ここで「資本」についても振り返りたいと思います。資本についてベンチマークな論考をしているのは、古典派経済学の祖であるアダム・スミス、限定的な解釈を提示しているマルクス、 包括的な理解を提示しているアーヴィング・フィッシャー、スミスの理解を受け継いだアルフレッド・マーシャルの四人です。
アダム・スミスは「諸国民の富」で、個人や社会の資財は、直接消費にあてられ利潤を生じない部分(例:箪笥の衣服)と、利益をもたらすことが期待される部分(例:貸衣装屋さんの衣服)の二つにわけられ、後者が資本であると説明しています。更に、資本は機械や職業における技能など所有を固定した状態で収入をもたらす固定資本と、材料や貨幣など流通することによって収入をもたらす流動資本に分けられるとされています。そしてこのスミスの固定資本と流動資本という分け方に対し、マルクスは「資本論」にて、生産に直接投下されていく不変資本と、資本家が生産過程で価値を増殖させる可変資本の二つを対置させました(佐藤2003)。
マルクスの資本概念とは対照的に、包括的な理解を示したのがフィッシャーで、本人の著書「資本と所得の性質」で、資本を「ある瞬間において存在する富のストック」と定義し、所得は「ある一定期間におけるサービスのフロー」として対照させています。両者を区別するものは時間軸で、それによりストックとフローに分けて考えていることから(Fisher 1997)、フィッシャーによると人間の求めるサービスを生み出す全てのストックが資本に含まれました(佐藤 2003)。
スミスの考えを受け継ぐマーシャルは、財には物質的な財と非物質的な財があることを主張していました。物質的な財には製造産品や機械・建物などのほか、土地・水・空気といった自然も含まれます。非物質的な財は人間の資質・職業上の能力・趣味を楽しむ性能などの内面的な財と、商人や職業人のもつ暖簾や営業上の結びつきなどの外部的な財から成るとしています。マーシャルにとっては財として議論し、資本ではなかったとしている点は留意する必要があるかと思いますが(マーシャル 1965:70-80)、ここでいう内面的な財はのちの「人的資本」また外部的な財は「ソーシャルキャピタル」の考え方につながるとみなすことは可能であると言われています(佐藤2003)。
以上の議論をふまえると、非物質的で外部的な財であるソーシャルキャピタルが、利益を生み出す資本としての役割を果たす時、ストック(静的な)として存在し増えていくソーシャルキャピタル(例:人的ネットワークから特別に利用させてもらえる施設の数や、共に有意義な生産活動に従事できる仲間の数)と、フロー(動的な)として捉えるべきソーシャルキャピタル(例:お店の信用や暖簾など、維持していくことに継続的なアクションが必要なこと・もの)を頭に置いておく必要がありそうです。そして、特にこのフローとしてのソーシャルキャピタルを捉える時、フロー自体の内容を捉えることも大事ですが、フローとしてのソーシャルキャピタルに対して、実際に誰がどのような動機で動いているのか等、動的な部分を観察していくことにより、ソーシャルキャピタルが増えて好循環が生まれる秘訣のようなものが見えてくるのではないかと思っています。
ここについては、五城目町のコモンズを考察するためのフィールドワークの実施や、比較対象となる地域のフィールドを観察していく過程でカギとなる見方な気がしているので、心に留めながら進めていきたいと思います。
ソーシャルキャピタルの議論の展開と、ソーシャルキャピタルとコモンズのあいだ
ここでもう一つ、ソーシャル・キャピタルについて理解しておくべきかなと思う視点があります。フランシス・ フクヤマ(Francis Fukuyama)は、ソーシャルキャピタルを「信頼が社会に広く行き渡っていることから生じる能力」とし、これまでのソーシャルキャピタルの定義は社会ネットワークが前提となっていたのに対し、信頼がソーシャルキャピタルの前提としています。
さらにロバート・パットナム(Robert Putnam)は、ソーシャル・キャピタルの要素として「ネットワーク」「信頼」「互酬性の規範」を挙げ、その中で信頼に対しては、厚い信頼 (Thick trust) と 薄い信頼 (Thin trust) があると挙げている。「厚い信頼」は強い関係性で、頻繁に会う機会があり、個人的関係に埋め込まれた信頼である。これに対して「一般的他者に対する薄い信頼」は「コーヒー ショップで会釈する知り合いとの薄い絆」と表現しているが(Putnam 2006)。これは親しい友人というより、日常的に会う機会があり、互いを知っている関係のことをさし、この「薄い信頼」は、より広い協調行動を促進することも多く、このような信頼があると自発的な協力が生み出されとパットナムは考えています。よって、信頼をソーシャルキャ ピタルの本質的な構成要素の一つとして捉えていたと同時に、ソーシャル キャピタルが信頼を生み出すとも考えていたといえるかと思います。
またパットナムが提示するソーシャルキャピタルでもう一つ重要なのは、結合型 (bonding) のソーシャルキャピタルと橋渡し型 (bridging) のソ ーシャルキャピタルです。 結合型のソーシャルキャピタルは、主に組織内における人と人との同質的な結びつきで、内部で信頼・協力・結束を生むものです。例えば、これは家族やサークル活動などの関係を指します。これに対し、橋渡し型というのは、異なる組織間の異質な人や組織を結び付けるネットワークであるとされています。例えば、異業種交流会やお祭りでのつながりなどを指しています。
尚、マーク・グラノベッター (Mark Granovetter)博士は、 論文「The strength of weak ties」にて、強い紐帯 (String tie) と弱い紐帯 (Weak tie) に触れ、論文のタイトルにもなっている弱い紐帯の強みについて述べています。これは、自分と緊密な関係にある人よりは、弱いつながりを持つ人のほうが、有益で新規性の高い情報をもたらしてくれる可能性が高いというものです (Granovetter 1973)。例えば、家族や仲の良い仕事仲間など自分と強いつながりを持つ人たちは、同じような価値観や生活スタイルを持つ場合が多く、情報の入手方法も重なることが多いです。他方で、自分とのつながりが弱い人は、自分と異なる価値観や生活スタイルを持つ場合が多いため、自分が知り得ないような新規性が高く有益な情報をもたらしてくれる可能性が高いということを言っています。
一般的に強い紐帯で結ばれている人たちのグループやコミュニティは、同質性が高いため中にいる人たちは周辺から孤立し、新たな情報が入りにくくなりがちです。そのような状況に対してグラノヴェッター博士は、強い紐帯同士をつなぐ役割として弱い靭帯が機能することができ、それにより価値のある情報が強い靭帯内で伝わっていくという大切な役割を果たすと述べています。
よって特に日本の地方のコミュニティに一般的にいわれている閉鎖的なコミュニティーというのは、もちろんそれ自体を否定するものではないのですが、コミュニティ同士を結びつけることで「弱い紐帯の強み」を活かし、新たな気づきを生み出したり、可能性を拓くということが考えられそうです。そしてこの議論は、現在あちこちでよくきくようになった、関係人口の地域における意義にもつながっていく話と思います。
ここまでコモンズとソーシャルキャピタルとは何かというところを出発点にして言葉を整理しながら議論を展開してきました。ここにきて思うのは、コモンズとソーシャルキャピタルは密接な関係性がありそう…でもどんな関係性があるのだろうか?という疑問です。「コモンズとソーシャルキャピタルのあいだ」にはどういう視点が必要なのでしょうか。
一つ、参考になる文献に書いてあったのは、
「多くの研究が、自然資源管理における集団的な行動とソーシャルキャピタルの間には非常に密接な関係があることを示している (Ostrom et al. 1994; Putnam 2001; Gautam and Shivakoti 2005)。ソーシャルキャピタルの概念は、取引コストを低下させ、フリーライド行動を減少させる能力を持っているため、集団行動を奨励する有益な手段として、多くの文献で注目されている。(Suharti 2016)」
"Many studies show that there is a very close relationship between Social Capital and Collective Actions in natural resources management (Ostrom et al. 1994; Putnam 2001; Gautam and Shivakoti 2005). The concept of Social Capital has received much attention in literature as a useful instrument of encouraging Collective Action due to its ability to lower transaction costs and reduce free riding behavior” (Suharti 2016).
ということです。自然資源であるコモンズがあった時、それにはみんなでまとまってどのように管理運営していくか相談しながら進めていく必要になってきますが、その管理運営をスムーズにし、より発展させるためにソーシャルキャピタルの議論が大切になってくるということなのだと思います。
五城目町の事例を考えると、ここから色々な議論が出来そうな予感がしますが、これから実施する予定の町内のフィールドワークでは、このソーシャルキャピタルとコモンズの関係性を意識に置きながら検討すると色々なことが整理できそうな気がしています。
五城目町のコモンズ
日本の農山村地域では社会的共通資本として利用されているものが既に沢山あるように感じています。私も首都圏から農山村に暮らしを移してみて体感として感じるのは、所有物の境界線があいまいであっても秩序が保たれていることや、自分が持っているものを気軽に貸してくれたり気持ちよく共有する雰囲気があるなということです。
さて、これまでの沢山の経験を振り返りながら、今回五城目のプロジェクトメンバーと、ひとまず思いつく限り社会的共通資本と呼べそうなものを宇沢先生の定義に従い「自然」・「社会インフラ」・「制度」の三つに分けながら、黒板に書き出した跡がこの箇所です↓
(色々な書き込みがあり見にくくて申し訳ないですが…)黒板の右側に書き出した通り、ひとまずざっと洗い出すだけで、これだけ沢山の社会的共通資本(黒板ではコモンズと書いています)が挙げられました。書き出してみてメンバーと感じたのは、五城目の社会的共通資本は「社会インフラ」が豊かです。そしてこれらの社会的共通資本に関わっている人たちが相互に織り交ざっている上に、町内の人たちだけでなく町外の人まで巻き込みながら社会的共通資本の中身が変化したり充実している動きもディスカッションしながら強く感じました。
コモンズの特徴として、コモンズの運営や管理は、そのコモンズが存在する生態系や環境に優れた外部効果(external effect)を与えるという指摘があり、このことは今まで環境資源について言われていました(三俣他 2010)。五城目の場合には、コモンズの「外にひらかれている」特徴から優れた外部効果(例えば、五城目朝市は、出店も買い物客も外からの受け入れに積極的なために、新しいイベント・取組み・チャレンジを生み出し、既存のコモンズの新しい展開や次なるコモンズが生み出されるという展開をしやすい)が観察できるのではないかと思っています。
また、コモンズの変容過程を動的に捉えることで真のコモンズを理解を深めるとの指摘もある通り(三俣他 2010)、五城目はコモンズとして機能しているものが地域の状況・運営主体の変化により変化している(例えば、子どもたちが自由に遊べる施設として町内に有志により開設した「ただのあそび場」は、現在は最先端のデジタルテクノロジーに触れられる施設「ハイラボ」としてカタチが変化し運営が担われて、引き続き地域にひらかれています)様子もみてとれます。
黒板でひとまず挙げた事柄が、社会的共通資本なのかコモンズなのか整理する必要もありますが、引き続きこれらの役割・効果の整理と共に、事柄同士がどのように関係しているのか今後整理していくことで、みえてくることが多くありそうです。
特にこの文脈では、町(とその周辺)の自然・社会インフラ・制度を(五城目町に住んでいない人たちの含めて)一定の人たちで共有したり任せられたりすることで、単独ではマンパワー的にも資金的にも難しいと思われているハードルは、コモンズとして運営されたことで一つ一つクリアしているかと思うという意見もありました。全体として地域内の活動の量が増え、質も向上し、地域内の暮らしの楽しさが高まっていくダイナミックさがコモンズが沢山生まれている過程で感じられるかもしれないともディスカッションしていました。これについては、私もこの暮らしの楽しさは面的な広がり(例:町内の人達だけでなく関係人口にも広がっている)と、質的な深まり(例:個々人の活動内容が深まったり広がったり)を伴っている感覚を得ています。
コモニングの(一旦の)定義
さて上の写真にもある通り、黒板でのディスカッションの中では、「コモニング」や「コモニング力」という言葉も登場しました。今回の私達のプロジェクトでも使いそうな言葉なので、一旦ここでコモニング・コモニング力とは何かを整理していきたいと思います。
Bollier(2020)はコモンズを「それは名詞というより動詞である。(It is less a noun than a verb.)」と表現し、この動詞としてのコモンズという認識が出てきた中で言われ始めたのが「コモニング Commoning 」(Linebaugh 2008)というものでした。
コモニングについては、上記でも引用した森貴一さんのnote記事に記載があり、こちらの記載が分かりやすいのですが↓
「コモニングとは端的に言えば、コモンズの関係的・実践的な側面―人々がコモンズを編み直し続ける実践と、それを取り巻く関係性―を指し示す用語です。その視点でコモニングを見ると、コモンズが統治や所有の方法から実際の事例までを幅広く議論しようとする領域であるのに対し、コモニングはより実際の人々の実践と関係にフォーカスしていることが特徴にあるといえるように思われます。」
これを考えるためには、五城目朝市を事例にして考えてみると分かりやすい気がしています。五城目朝市は、530年近く続いている五城目町の朝市で、日付の一の位が0,2,5,7の日にちに開催されます。朝市が開催される場所は朝市通りという道路なのですが、朝市の時間帯(午前9時~12時頃まで)になると車道を封鎖し、会場の端と端にはカラーコーンが置かれ警備員さんがいてくれて、車が迂回するように促してもらいながら、会場の中では季節の野菜や魚、果物や甘味などの品々が売られています。朝市は、常にコモンスペースとして朝市会場だと分かるように確保されているものではなく、道路を封鎖し、出店する方々が品物を売ってはじめて会場となり、朝市開催日にコツコツと誰かが売り続けることにより成り立つものです。そこは、誰も何もしなくなってしまえば朝市は途端に消えてしまうように、そこに関わる人たちが実践を続けること・コミュニケーションをとることで朝一を通じた関係性が織りなされ続けることを求めます。
ですので、朝市を制度的な資本と捉えるならコモンズなのでしょうし、朝市の動的な部分に着目するなら、それはたゆまぬコモニングにより朝市が存続する訳で、コモニングは関係性であり実践的だなと思います。
ですので、コモニングは、ハーディンが描いた共同放牧地のようにそこに存在するというものに対する視座なのではなく、コモンズに関連する人たちがどう関わるべきなのかを考えながら、自分たちの意思で行動し続けるというところを意識していることなのだと思っています。
今後の研究事業の展開に向けて
コモンズは所有から統治など抽象的な議論も含めて広く議論が展開されてきましたが、コモニングはその場のなかで営まれる実際の動きや関係に焦点をあてて使用されている言葉なのかなと理解しています。
そして、何かをコモニングすることで、地域の様々な可能性がひろがっている過程を考察する時、そこには、住む地域の人たちの知恵や共同体の協調性・コミュニケーション能力など様々な力が必要になってくるので、これを一旦「コモニング力」と定義して整理してみるのも面白そうな予感がしています。
さて、これから考察するにあたり、本プロジェクトでは2024年11月28日~12月1日にかけて、沖縄県うるま市の一般社団法人プロモーションうるまの方々を中心としたメンバーと一緒に五城目町のコモンズをまわりながら、こちらの文献レビューをふまえて五城目町のコモンズとコモニング力がどういうものなのかを深めていきます。うるま島しょ部の方々は五城目町の豪雨被害の時には支援物資を沢山お送りしてくれて、私もその恩恵に助けられた一人です。元々のこのような関係性と、更には台風などの風水被害に毎年備えながら地域の関係性を維持し、災害時には威力を発揮する地域にいる方々からの視点で五城目町のコモンズやコモニング力を整理するお手伝いを頂く予定です。これからの出会いや会話をとても心待ちにしながら、こちらの視察のまとめ記事も追って記載したいと思っています。
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