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コロナとかいう天使

こんばんは、虚無・ラ・ガエリです。

「最近コロナが・・・」と昔から言われてきたのではないかと思いたくなるくらい、わたしたちはコロナにお熱だ。みんなPCR検査に引っかかってるよ。みーんなポジ。

わたし、若いんですよ。だからなのか2・3ヶ月前からこう思ってる。

「ああ、こうやってみんながなにかに怯えているのって好きだな。とてもワクワクする」って。

わたしね、あらためて誰かに尋ねてみたわけではないのだけれど、同じこと思ってる人は多いんじゃないかなって勝手に納得してる。

いろんな理由がこのときめきの形容のために動員されると思う。

ひとつに、四方八方・0から24まで見わたしても、まるで主犯なき誘拐でも起きたかのように、目と眉を険しくしつつ口元を拘束しながら生きる、というイベントが不意に訪れたからだ。コロナこそ世界から常識を盗み出し、いつもお互い異なった関心ごとに身をやつして分かり合えない人間たちの口元を、すくなくとも純白一色に統一し拘束しようとした実体なき誘拐犯なのである。

口元の拘束は、その存在が不快と猜疑の塊である(そしてしばしば幸福と快楽の塊になるのだから弱る)「他人」という別の生き物と異種間コミュニケーション(濃厚接触)をしなくて済むことの証明書だ。なによりこれこそが二つ目なんだけど、「コロナ対策」が自分に気遣うための画期的なマジックワードになったからだ。

心は密にして」とテレビで毎日唱えられる。その通り。でも、心を密にするってことは、いつもその心の中に他人がいることではないと言いたい。コロナでなかった時から、そして今もこれからだって、わたしたちは他人とベタベタしすぎているのだ。その心が真っ白に満たされていること。だれも周りにいなくたって構わないということ。それが心を密にするってことだ(と信じている)。「絆」が「しがらみ」に、「あったかい」が「暑苦しい」に変わるその手前に、わたしはとどまりたい。この距離間こそがソーシャルディスタンスだろう。

みんなは違和感を抱かないか?抱いた人はいないか?

「最近はコロナが流行っているからすぐに身体に違和感があったら言ってね」「コロナが流行ってるし、無理しないようにね」「これじゃ、仕事終わりの呑みは無しだな」「みんな同じ時間に通学・通勤するんじゃなくてズラそうよ」

いや、無理なんてもともとするものじゃないだろ。身体に違和感があってもすぐに言わないことがもともとだったってことがおかしい。

呑みがないだって?!よっしゃ!もう延々とチンアナゴみたいに首を伸ばして遠くにいる上司のグラスの減りを流し目で観察する仕事をしなくていいんだ。深夜給がアルコールなんて冗談きついのだ。

時間がズレる?これでガス室送り同然の圧縮を誇る通勤ラッシュへと生きるために死んだような顔をしながら飛び込んでいく、そんな奇妙なアドベンチャーは消え去ったんだ!

ああ、世界がこれくらいゆっくりと、経済効果なんて気にせず廻っていけば、どれだけ希死念慮は薄らぐのだろう。わたしたちは、努力という、会社や仲間という、慣習という、垂れ流された血と汗が結晶化し、もはや互いに分かち得ない、あたかも、そしてすでに、「固体のようなベタつき」と化した絆を、生きていくための必要経費だと考えてきたのではないだろうか。

こんなことを思った人、ほんとうにいないのだろうか?

コロナによって、わたしたちの周りの世界はおおかたこんな計画に則って運営されていたのだ(おそらくこれからもそうだろう・・・)と分かる。「今ないものを求めなければならない」「今でなく未来を生きたい」「あなたでない何かにあなたはならないといけない」「あなたは成長しないといけない」

これら一貫して「ポジティブシンキング」の音調をたたえている。ポジティブシンキングとは言い換えれば「皮算用」、「ないものねだり」のことだ。しかもこのテンポの早いリズムにはどこまでも厳粛な「ねばならない」がついて回る。なぜねばならぬのか、それはただそうだからなのだ。

あ、あんまり遅くまで起きてたら抵抗力が弱まるし、コロナが心配だから寝ます。おつかれさまでーす。お先に失礼しまーす。


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