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時には昔の話をやめようか

今気付いたんだが、俺は昔から「過去編」や「回想編」が好きじゃないんだ。

ゲームだと、キングダムハーツみたいに、2の後にxⅢ機関設立の謎に迫るタイトルのソフトが出てくるとか、FF7シリーズの『クライシスコア』とか…。
漫画なんかだとコマとコマの間が黒塗りになってる回は、どうしても飛ばして読みがちだ。

どうしてなんだろうな、と考えてみるにこれは、
現在を知った上で過去を見ていると没入感が無くなるから」だ。

全部遠巻きに見えるんだよね。
その時その時のキャラクターの止むに止まれぬ気持ち、置かれている状況、これに集中することができなくなる。

キャラクターがものすごい快進撃で敵をぶっ倒してるのを見て「うおおおおおッッッッ!!」と思いそうになる瞬間に「うーん、でもこいつが勝ってたら今はこうなってないし、結局あっさり死ぬんだよなぁ」って萎えさせるクレームが脳裏から介入してくる。

極端に言えば、作者からネタバレされた状態で没入とかできないんだよ。分からないか?この感覚。

おそらくさ、過去編の楽しみ方って読者というより作者の視点に立たないとダメなんだよ。
あらかじめゴールを決めておいて、その過程が楽しい。ある描写やキャラクターの言動にはすでに意味の繋がりができている。「あー、これが後々のこれに繋がるんだぁ」って分かるのが楽しいんだよ。
だから過去編や回想編を楽しむ時って、半分くらい自分は読者じゃなくって作者のような、神の視点に立っているんだよ。

漫画とかアニメ、ゲームってさ、主要キャラクターの心の有り様と世界の命運が密接であることがほとんどだ。現実に主人公含むキャラクターがいないのと同様、世界も俺たちに合わせてくれているわけではないので、この密接さこそフィクションの醍醐味だ。

で、この密接な関係って批評とか蘊蓄、解釈を加えようとする視点に立つと無くなっちゃう。

「この作品のこの描写の意味は云々」という態度はそもそもそこにすでにある意味を辿り直すということであって、没入体験、つまり、「意味未満のシーン」が「意味」になろうとする過程とは違うものだ。
あるかないかも分からない「次のシーン」こそが、現に生きているこのキャラクターたちに奥行きを与えているのだ。

まあつまり、過去編や回想編は、作品というより作品の批評や分析に近いものに見えるからあんまし好きになれないんだと思う。

まったく、忙しくなると俺たちはみんな半分だけ作者みたいになってしまって、批評や解釈をして楽しむ。全き作者になれはしないし、読者になるほど没入する暇もないから批評するしかない。

ああ、作者か読者になりたいなぁ。



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