アートにふれておこること
美術大学での4年間は、
表現する前にそもそも、
「芸術とはなんぞや?」を学ぶ場所だった。
例えば、私にのみ起こった「悲しい」と
誰かに起こった「悲しい」は
言葉としては同じ「悲しい」という記号にすぎないが
一体何がどんなふうに「悲しい」のかは
「悲しい」という日本語だけでは伝わらない。
つまり、
私とあなたの間には「悲しい」のみが共有されている、と言うこともできる。
しかし、
「悲しい」は目に見えない、
いわば、もやのようだ。
他者と共有するためには
説明が必要になる。
私たちは
一体何がどんなふうに「悲しい」のかを、
言葉でも音楽でも絵でも
色々な手段で説明できる。
説明したモノがあり、
そこで初めて、
私もあなたの「悲しい」を共有できる。
私とあなたの「悲しい」が
どんなふうに同じで
どんなふうに違うのかを。
私とあなたの間にある、見えない、もや。
それを可視化したり表現したものが芸術と言える。
このnoteにも、
そのような役割があるのかもしれない。
考えを自己だけで完結するのではなく、
開けたものであろうとする姿勢が。
他者を前提として、
表現するということを
忘れないでいたい。
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