ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その13(最終回)
※タイトル写真はアルナーチャラ(大嘘)の地図。
長かった解説も今回で(多分)最終回。
https://www.gururamana.org/Resources/Books/Who-Am-I-Japanese.pdf
この冊子および当解説は、おそらく殆どの人にとっては意味不明で、
「こんな意味不明なものより金持ちになる方法がいい!」
「チヤホヤされて有名になりモテる方法がいい!」
「人生を思い通りにして願いを叶える方法がいい!」
なんて思っていることでしょう。
それはそれで結構なことで、こんなもの読まずにそういう本やブログを読んだり、「お前の苦労をずっと見ていたぞ」とかいうゴールドタイガーの動画に引っかかったり、「努力」の末にハシタ金やガラクタを掴んだり女(男)とヤッたりして「充実した人生」を満喫すればよろしい。
そのうちそんなもの「充実」どころかクソみたいな人生だと分かるし、求めても求めてもキリがないことも分かります。
まぁ死ぬまで分からなければ、それはそれで「幸せ」な人生なのでいいでしょう。
問27 探究と瞑想の違いは何でしょうか?
自己探求とは真我のなかに心をとどめておくこと。
瞑想とは、「私」(self)がジニャーナ―存在・意識・至福である、つまり「『私』は真我である」と思い込むこと。
が回答。
言い換えれば、
自己探求:「私」を根本とするマインドを真我に還し、対象としての「世界」消すこと。
瞑想:前回の「超能力」と同じく、「世界」といったものにしがみつくこと。
であります。
こんな感じで、散々言ってきた通り、「対象」ではなく「主体」に向けましょうということ。
というか、
とある通りで、心が真我にとどまれば日常生活の行為全てが「瞑想」になる、「生きること即瞑想」になるのであります。
問28 解脱とは何でしょうか?
いよいよラストの問答。
というのがそのまんまの回答で、もう分かっている人はお分かりでしょう。
「束縛されている自己」というのは、
マインドの反映・投影によって現れた「世界」にある、様々な対象に「私」が束縛されていると感じているということ。
もっと具体的にいえば、
身体、知覚、思考、感情、人間関係、カネ、モノ、地位や肩書、他人からの評価、状況や出来事、過去や未来、老いと病と死…
といった、「ガチではないもの」に色々と縛られて、にっちもさっちもいかなくなっている、ということ。
「俺はそんなものに縛られていない!」なんて本心から言える人は100万人に1人もいないでしょう。
本当に縛られていないなら、この解説程度の内容は幼稚園の絵本レベルで理解できるし、上にあるような「充実したクソみたいな人生」を最早求めたりしないでしょうからな。
そんな「束縛されている自己」の本性を探求する、つまり
「こんな世の中で束縛されているのは一体誰か?」
→「それはもちろんこの私だ。こんな束縛だらけの世の中じゃないか!」
→「ではその『私』とは誰か?」
と、束縛の対象ではなく、束縛の主体を探求していけば、「私」「束縛」「世の中」なんてものは最初から存在していなかった、
いや実のところ、私を束縛していたのは、上記のしょうもない世の中の諸々などではなく、他ならぬ「私」だったんだ!と悟るわけです。
それが本問における回答の「解脱」であり、やり方は当初から書いてきた通りで、悟ったその後、どうやって生きていけばいいかも書いた通りでございます。
以上、これで今回の解説は終わり!!
感想としては、本当はタフ語録の他にちいかわ語録も入れたかったのだけど、ちいかわ語録って「~ってコト!?」「泣いちゃった!」「なんとかなれー」くらいしか思いつかない、というかハチワレの台詞しか出てこないし応用が効かないので入れること能わずでした。(一箇所入れてたヮ)
タフ語録は優秀、はっきりわかんだね、ということでこれにて終了。