霞ヶ浦で出会った江戸時代の循環システム
茨城県の霞ヶ浦です。ウィキペディアで確認しましたが、琵琶湖に次いで日本で2番目に大きな湖なんですよ。霞ヶ浦、広いですねー。
この海の中の建物、イタリアのアドリア海に浮かぶトラボッキをちょっと彷彿とさせられませんか。トラボッキは網漁のための木製の漁師小屋だけど、こちらは養殖小屋です。風景だけを切りとると、どこの国かわからない。そんな青空の広がる残暑厳しい日、同県のかすみがうら市に所用があって出かけました。
用事が終わって霞ヶ浦の岸辺に立つと、大きくて海みたい! 風が吹いて気持ち良い! そして子どもの頃、祖母に連れられて花火大会に行った、土浦市の夏の夜のことを思い出しました。
土浦市はかすみがうら市の西隣。霞ヶ浦の北岸に面しています。亡くなった父方の祖母は、この町の下駄屋に生まれ育ちました。東京の女学校に通い、縁あって東京の祖父の元に嫁ぎました。
生まれた頃から祖父母の近くに住んでいた私は、祖母の土浦時代の話を台所仕事を手伝いながら聴くのが好きでした。若い奉公人さんが入ってくると、木を扱うのに慣れるため、まず山椒の木ですりこ木をつくらされていた、とか。祖母の父は下駄の材料である桐を会津に買い付けに行っていた、とか。中でも印象に残っているのはカツオを賄いでたくさん食べた、という話です。
土浦は海に面していないし、霞ヶ浦沿岸の町でカツオ?と思われるかもしれません。でもGoogleマップでも地図帳でもなんでもよいので、霞ヶ浦と南東に伸びる川を見てください。霞ヶ浦は利根川(常陸川)で千葉県銚子市で海とつながっているんですよー。銚子といえばカツオ。今のように流通手段の主役が車ではなく水運だった時代、銚子で水揚げされた魚は、船で土浦まで運ばれていたのです。
土浦の町では5月になると、棒手振り(ぼてふり)が木桶を氷でいっぱいにして、そこにカツオを頭から豪快に差して、売り歩いていたそうです。旬のカツオは蒸してナマリにしたり、揚げて南蛮漬けにしたり。はたらく職人さんたちの賄いとしてさまざまな料理をつくっていた、と懐かしそうに話してくれました。5月になると、祖母の食卓にはカツオがよく並びました。今でも思い出す祖母の味のひとつがカツオの南蛮漬けときゅうりとナマリの和え物です。
霞ヶ浦の水運は太平洋と茨城沿岸をつないだだけではありません。今回かすみがうら市を訪ねた時に聞いたのは、江戸時代、霞ヶ浦周辺の里山で伐採した松をはじめとした薪炭、石岡の日本酒、土浦の醤油などを江戸の町まで舟運で運び、帰りには金肥(下肥ですね)や銭湯から出る木灰を肥料として運んでいた話です。余談ですが、銚子と江戸も利根川と隅田川、さらには江戸の町の運河の水運で結ばれていました。海産物や紀州からの樽垣廻船に載せた下り荷の酒や醤油、時代が下ってからは銚子や野田の醤油が運ばれていたことはよく知られてますよね。
霞ヶ浦と同じような話を埼玉県川越市でも聞きました。こちらは川越の南の河岸・上福岡という町からは川越周辺で育てていた甘薯(さつまいも)をはじめとした農産物を、江戸の町からは肥料となる金肥や木灰を、隅田川・荒川を通じて舟で運んでいたのです。
江戸時代からすでに、東京は世界有数の人口をほこる大消費地でした。でも当時は消費するだけでなく、水運を通してエネルギーを循環させていたことを、霞ヶ浦の北岸で聞くとは思いませんでした。
かすみがうら市の話に戻ります。東京に戻る前に、かすみがうら市から行方市へ橋を渡ってすぐの道の駅で買い物をしました。いろいろと物色していると、祖母が好きだったワカサギの塩茹で、アミの佃煮だけでなく、冷蔵ケースに鯉を輪切りにした甘辛煮やナマズの西京漬や唐揚げが! 淡水魚の宝庫なのかと思って調べてみると、昭和13年の水害を契機に建設された常陸川水門によって、汽水域だった湖が淡水化したそう。それによって外来種であるブラックバスやナマズが増えたようです。水の動きを停滞させたことで、生態系をはじめとした環境にも大きな影響があったのではないでしょうか? 現在この常陸川水門を開門する動きがあって、ヤマトシジミの養殖が復活したとか。この道の駅にもヤマトシジミが並んでいました。
水の循環が改善され、環境が再生したら、スズキやウナギが霞ヶ浦に戻る日がくるのかもしれません。