見出し画像

【企画】「人生を語る」ようでタイムスリップした話。

私は幕末(江戸時代末期~明治維新前)が好きだ。
高校時代は、今でいう完全に「歴女」だった。

今風には、推し??

  

 

高杉晋作だ。

 

 

なんで幕末が好きかっていうと、
あの時代、人は手紙一つを、足で届けていた。

藩を超え山を越え。

もしもそれが道中果たせないとなれば、その場で切腹するような、
なんていうか、熱さ。
飲み屋でたまたま居合わせ語り合った人と意気投合し、
ひと晩語り明かしたこの国の未来を、
ずっと心に信じて自分の為すべきことに奔走する。


「長州では今頃きっと○○さんが、」

「松陰先生ならきっと、」


と、互いに確固たる相手像をもとに、日本のために奔走していく。
筋の通ったエネルギー。

かっっっっこいい。


タイトル画像は、高校の夏休みの自由研究で、
高杉晋作についてA6スケッチブック1冊に、
絵と文章で彼の魅力を書きこんだ、最後のページの絵。

(ちなみに、少し私のことを書くが、私は親に勉強しなさいとかほとんど言われたことはない。高校時代の定期テスト前には、「もう、やめたら?」と言われていたくらい。ちなみに、私の妹は、あんまりお勉強をしなかったタイプ、今は、幸せに2児の母をしている。)


高杉晋作に話は戻るが、彼の辞世の句は

「面白き こともなき世を 面白く」
(すみなすものは こころなりけり) とつづく

腰に付けたひょうたんにはお酒。そしていつも三味線を弾きながら、

夷的(鎖国時代の諸外国)と戦ったりする。



ここで少し、対話をしてみたい。

鈴さんは、
「マジョリティーの普通が、コミュニティーの普通。」
普通に同化しようとして、自分の生い立ちや境遇を語ることを憚ってしまうと、述べていた。

落合氏としては、
県人会という場もあるし、東京に出てきた学生も決してマイノリティーじゃないから、地方の学生達がイメージする東京(都会)は、違う普通。
それに縛られた結果、対話することをやめてしまい、そのまま大人になっていく、社会の図式に違和感を感じている。(のだろう)

と、ビヤさんは思った。そして、

僕の中には煮え切れない違和感が残った。
いや、つまり人が、自分の境遇や生い立ちを語らない、対話をしない。
その理由は、本当に、普通に同化しようとするからなのか。
是非、読者のみなさんに聞いてみたいのだが、
“普通に同化してきたから、生い立ちや境遇を語らなくなったのか”
と、問いかけてみた時に、Yes かNoか。

これに対して私は、やはりビヤさんの言うように、お腹の底からYesと答えられない。

では、Yes以外は何なのかを、私なりにも考えてみた。

ビヤさんは、大人のバイアスと言っていたけれど、それと同じようなことなんだと思う。

1人の人間の中だけでも、本当に様々な背景がある。
生い立ち、家族関係、学歴、に始まり、職歴、婚姻関係、友人関係、収入、
そして、我が子の、それ。など。

更にそれは、充実さ、縁、運、とかにまで広がっていくと思う。

それが、人間の数だけ存在する。


すべてを恵まれている人がいないのと同じように、
すべてが不幸な人だっていない!
(すべてが○○と、今、思ってしまっている人は、いるかもしれないけれど、それは必ず、いつか、何かのきっかけで気が付けるのだと思う。)


そんな一人一人が、
出会う人出会う人に、自分を説明できる量や話術には限界があると思っていて、

そんな限られた言葉での、数時間のコミュニケーションでは、
(私の主観的な言葉でそのまま伝えてみると、)
初対面の人に対してなら、
「どれもディスられる可能性を秘めていて、どれも自慢に聞こえる可能性がある。それが怖くて、言えない。」

親しい間の人なら、
簡単に言えば、「ズレてる部分が明らかになって、嫌われるかもしれないのが怖い」だ。


だけど、私は、このビヤさんの投稿を見た後に、
なぜか幕末を思い出した。


私は、

誤解を恐れずに言うと、緊迫した政治情勢が好きだ。
それは、戦争を支持するという意味では全くない。

でも、緊迫した政治は、学んでいてワクワクする。

それはなんとなく、政治家や人々がみんな、
すごいとかすごくないとかではなくて、
本気に見えるから。


だから、ねじれみたいなものって
「平和」みたいなものを感じた。
論点が変わってしまう気もしているのだけど、
なんとなく私はそんなことを感じた。


コロナ社会を悲観してしまうこともある。

でも、たったの75年前には、
軒先で見上げた空飛ぶ飛行機に、命を狙われ怯えた時代。

今息子は、飛行機を見て、嬉しそうに指さしている。


乗り越えられないわけがないって、思うのは私だけだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?