【看護のこと】今までの看護師経験について

さて、今回は仕事について。
私は看護師として仕事をしているわけですが、看護師人生も色々ありきで今があります。
それはどのような流れでここまできたかということですが、今回はそれを書いていきたいと思います。

そもそも何故看護師なのか

私は俗にいう2世というもので、母が看護師をしています。
ですが、幼い頃は看護師という仕事を私は嫌っていました。

母は看護師の仕事を天職といっていて、私が幼い頃からずっと働き詰めでした。
なので私は小さな頃から保育園に預けられていて、居残り保育がザラ。
幼心に母が迎えに来ず、同期の子が迎えに来た家族と帰っていく姿を、指を咥えて見ていたのを今でも覚えています。
小学生になってからも、母は忙しそうに仕事をしていて土日は疲れていると言ってあまり遊んでもらうということがなく、授業参観等にも来てくれることが少なかったように思います。
幼いなりに仕事で忙しい事情は分かりながらも、何故いつも来てくれないのかな、遊んだりしてくれないのかなと寂しい気持ちになっていました。
そのせいか、幼い時は看護師という仕事は、むしろ自分から母を奪っていくもので嫌いだったのだろうなぁと思います。

ちなみにこの頃の将来の夢はイラストレーター。
絵を描くことが好きだったからという単純な理由ですが。
ただ、やはり母からは、そんな仕事では食べていけないから資格を持てと言われて受け入れてもらえず。
ますます看護という仕事に良い印象が持てない状態でした。

そんな自分がどうしてまた看護師の道を選んだのか…

私には全盲の祖父がいました。
幼い頃から私を可愛がってくれていた祖父。
私が幼い頃は祖父の点字板で適当に打った文章を読んでもらったり、祖父が営んでいた鍼灸あんまの診察室で色々道具を見たり…そんなことをしながら、優しく祖父は近くにいてくれていました。
全盲のせいなのか、祖父は五感に優れ頭の良い人でした。
何かを思えば目が見えないのに、思いを読まれているのも祖父のすごいところだったと思います。

私が高校生の頃、祖父は時々ボケた感じになるようになりました。
ちょうど私は反抗期くらい。
そんな祖父を受け入れられず、煙たがって受け付けなくなっていました。
祖父の存在、父に怒られて喧嘩する様子…全てを受け止めることがそもそもできず、ボケていく祖父に「早くいなくなればいいのに」なんて、心のないことを思ってしまうこともありました。

ある日の明朝、祖父は突然下血し帰らぬ人になりました。

あの日、私は高校の期末試験前。
1時頃まで起きていて、母に起こされたのは4時前。
おじいちゃんが息していなくて救急車呼んだからと言われ、頭フリーズ。
寝ぼけ眼の自分は少し考えてから冷静になって、このまま会えなくなるのかと思って飛び起き、祖父がいた部屋までいくと、母が祖父に心臓マッサージをしている様子が目に映りました。
下血は畳に広範囲に及んでいたと思うのですが、よく覚えておらず。
ただ覚えているのは母の心臓マッサージをする姿と、真っ白な祖父。
近くにみたときに、手が蝋人形のようになっていて、初めて有機物だった人が無機質なものになってしまう瞬間に立ち会いました。
そうこうしているうちに救急車のサイレンと赤灯…
無我夢中で玄関にでて、救急車に手を振り合図したのを覚えています。

その日、そのまま、祖父は亡くなりました。

その時に思いました。
私は祖父に意味もなく、いなくなればいいのになんて思ってしまった。
祖父が変わる姿を受け入れられず、ただ嫌だという感情で排他してしまった。
あとになって祖母から、祖父が私の態度を知って悲しがっていたということを告げられました。
私は何もわからずにただただ祖父をつけはなしてしまったのだと感じました。
あの時の自分の懺悔、そして分かり合えなかったあの感覚…
いつしか、看護師になろうと心に決めた自分がいました。

なので、私が看護師になった起点は、祖父との経験が大きく背景にあります。

本当は大学時代から新潟出たかったのに…

そしていざ大学受験。
私は性的マイノリティ当事者でもあるわけですが、当時国公立で看護系大学でジェンダーを学ぶことができる大学は横浜市立大学しかありませんでした。
私はそこまで賢い方ではないので、勉強して模試を何度受けてもD判定が関の山。
それでも最後まで諦めずに、最後の望みをかけて2次試験の小論文を受けに大学まで行き、対策したから大丈夫だ!と意気込んで臨んだら、なんと保健師の内容がでて撃沈。
あぁ、落ちたなと思って意気消沈していたら、母が流石にこれはまずいと思ったのでしょうか…誕生日が3月だったということもありますが、横浜のみなとみらいでずっと欲しかったNIKEのエアフォース1のmidの白を誕生日プレゼントとして買ってくれました。
それはそれで懐かしい思い出です。

案の定結果は不合格。
これは当時の私の中では大きな挫折経験でした。

その後、幸いにも地元の新潟県立看護大学を後期試験で合格して看護学生生活を送ります。
今の母校は不思議なもので、今も昔も私に色々な縁や刺激やインパクトを与えてくれる場所です。
そんなところで学生生活を送り、晴れて看護師となりました。

手術室看護師時代

横浜市立大学の受験に失敗した私でしたが、幼い頃から旅行で訪れたことがある横浜に憧れや期待を持っている思いは消えず。
そのため、看護師として就職する場所は横浜と決めていました。
いくつかインターンを経験して、結局決めたのは横浜の東部地区にある急性期病院でした。

入社試験当日。
私は子供の頃から救命病棟24時や海外ドラマのERに影響を受けていて、さらに祖父のこともあってもっぱらの夢が救命だったので、とにかく救命に対する思いを語りました。
そしてその日、教育や人事を担当する看護師からオペナースセミナーをしているから、試験のあとに体験していかないかとお誘いを受けました。
なんだろうそれ面白そうだなぁと思ってふらっと参加。
昔からブラックジャックも好きで、手術室への興味もなかったわけではないのですが、実習で見ていたときの手術室はあまりイメージに残っておらず…
とにかくその日は楽しむだけ楽しんでいい経験したなぁくらいで病院を後にしました。

そして無事に内定。
配属先の希望用紙が内定後配られ、①救命病棟、②ICU、③手術室としたように思います。

いざ新人社員研修を終えて配属先の発表になり、ドキドキしながら待機。

救命病棟…呼ばれない。
救急外来…呼ばれない。
え、呼ばれないのだけど…
ICU…呼ばれない。
病棟…呼ばれない。

うそ、本当に?これが本音。
ご存知の通り、私は晴れて手術室の配属となりました。
すごく熱く語った救命には配属されず、想定外の手術室で、仕事が務まるのかと不安が一気に湧き上がりました。

そこから5年と少しの期間、私は手術室で奮闘することになります。
私が勤めていた病院はオールマイティに手術を実施していたので、器械出し(先生に手術器械を直接渡す)と外回り(患者の管理や器械出しの補助をする)を3年くらいかけて習得する必要がありました。
手術室に配属された1年は、死ぬ物狂いで手術に取り組んで、とにかく覚えようと明け暮れていました。
新卒新人で入った時に言われたのは「ゆとり」「怒ってはいけない教育」「平成生まれ」というもの。
それだけで自分を評価されてレッテルを貼られることに許せず、ただただ負けじと喰らいつく日々でした。
今思えば周りの人達のコミュニケーションの一つだったと思うのですが、私はその言葉に過剰に反応して、とにかくその言葉で語らせないくらいには成長してやるという思いでいっぱい。
当時の師長さんから、普通なら勉強しなさいと言われるのに、ちゃんと休めと言われる始末でした。
そのくらい、とにかく必死でしたが、1年くらい経った頃に中央研修があり、同期と交流することになります。
思い出に残っている看護を書くワークがあったのですが、文章を書くことに抵抗を感じたことがなかった私ですが、その時ばかりは目が進まず思い出せない状態。
私はその時、患者さんの顔も名前も覚えておらず、ただひたすら症例と手術介助を追い求めていたことに気がつきます。
その時に、はたと思いました。
手術室にも看護があるはずなのに、私はちゃんと考えてこなかったなと。
手術室の看護とは何なのだろう…。

そこから手術看護を思いながら、患者を取り残さない、孤独にしない、手術以外の侵襲をあたえない、手術看護の極意を考えていきました。
(そこはまた今度詳しく)
その中で銃創患者や拘留中の患者の手術を受けたり、ある芸能人の手術を担当したりしたこともありました。
燃え尽きそうになったり、自分がマイコプラズマ肺炎になったりしながら、経験を重ねて教育担当やリーダー業務も担い…

5年近くが経った時に、このまま看護師として手術室にいるでいいのだろうかと、段々と思うようになりました。
私が最初に志していたのは救命で、そこにチャレンジしなくていいのだろうか、今がその時なのではないだろうか…
そんなふうに思うようになりました。

救命病棟時代

6年目になり、意を決して救命病棟へ異動。
手術室は看護の中でも特殊な領域、病棟経験がない自分は不安しかありませんでした。
ここでも異動後はとにかく業務を覚えることが先行で、その後徐々に看護とはなにかを考えていきました。
精神専門看護師とつながったり、性被害者支援を救命病棟で考えたり…

その中、救命病棟1年目の2月に父が倒れた連絡を受けました。
私の中で救命は父が倒れてからの時間が長かった場所。
上越と横浜の往復を月に何回もしながら、救命の仕事を続けているのはなかなかに辛いものがありました。
特に父の状態とリンクする患者さんを受け持った時は、精神的に抉られる思いをしたものです。

父が倒れてから、私は上越に戻ると漠然と決めているところがあり、救命病棟での勤務は約2年、前職での勤務は7年で幕を閉じました。

障害福祉施設の看護師へ(現在)

急性期の病院でバリバリ働き、それなりに勉強もしてきて充実していたのですが、正直少し疲れてしまった感覚がありました。
上越に戻ること自体は自分の中で想定外のこと。
しかもそこまで好きではなくて出ていった故郷に戻ることはなかなかの不安でした。

その時に大学院進学も決めていて合格もしていたので、次の職場を探すのに少し苦戦しました。
大学院での時間を確保するためにフルタイムでの勤務は難しいだろうと思ったため、非正規で時間がとれるように考えていたため、選択の幅を狭めてしまったのが大きな理由です(この時点で難病はまだわかっていません)。
そしてダメ元で大学時代にボランティアをしていてお世話になった障害福祉施設の方に連絡。
そこで働き方の条件も踏まえた上で採用していただけることになりました。

障害福祉分野は、今までの分野とはまるで畑違い。
バリバリの急性期病院とは全く働き方が異なり、ギャップもかなりあるものでした。
それでも急性期で経験したことが、医師のいない施設で地域医療を支えていく上で役立つことを、身をもって体験しました。
その中で、昨年4月に難病発覚。
看護師だというけれど、重いものをもって運ぶなどの動作にドクターストップがかかり移乗等の実施が難しくなってしまいました。
その中でも看護とは何かを諦めずに考え続けています。

医療と福祉は似て非なるものも多くあり、お互いの意見を尊重して折り合いや間をとっていくことの難しさも実感して早6年…
考えてみればそもそも看護師になって13年の月日が流れていて、もうすっかりベテラン勢。
何年働いていても看護の奥深さはそのままに感じています。

さて、この先も自分らしく看護師として生きていこう。

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