見出し画像

形がないものに形をつけることとイザヤの映画

形がないものに形をつけると、必ず個人差が出ます。

世界のあり方について、これほど多くの宗教という形態が存在するのもその理由の一つです(教義に嘘を練りこむことで精神的に迷子になった人からお金を巻き上げられることを覚えてしまった人たちが宗派を増やしたという背景もあります)。世界の切り取り方、認識の仕方にも個性があり、自分が理解しやすい言い方、それにも必ず相性があります。そして、もともと形があるようで無いこの世界のあり方を言葉で説明することそのものに常に難しさが付きまといます。

私は幼少期、言語化が苦手でした。形がなくてモヤっとしているけれどもすっきりとした感触のイメージや作業のやり方、そのようなもの全般を言葉にするのが苦手で、どうして言葉にしないといけないのかもよくわかりませんでした。後に社会的観念を押し付けられることからくるストレスを発散させるために、その手段の一つとして有効だということは理解してよく使うようになりましたが、世界が平和ならもしかしたら言葉って要らないものなのかな、とも思います。

モーセは晩年、人々に宗教という思考の型をインプットしたことをひどく後悔していたと、ひ孫であるアナスタシアの書籍に書いてありました(モーセの墓は日本にあるとも聞くので、そこはパラレルワールド現象かもなと思います)。モーセは後年、失明して光を失っていますが、これは宇宙的に見ても多くの人から光を奪ってしまったということなのかもしれません。本を読んだ当初は「なぜだろう?たくさん人を助けたんじゃなかったのかな?」とわかりませんでした。意図していなかったのに結果的に光を奪うことになってしまったのか、当初から多少なり人々の思考を型にはめるような意図をしていたのかは書籍で明らかにされていないのでわかりませんが、ユダヤ教が現代でも習慣として根付いているイスラエルの現地で私個人が感じた限りでは、愛のある人が思いやって作ってくれた型だった、それが起源なのではないのかな、という印象でした。
イスラエルに半年滞在させていただいて、その素晴らしさも知っていますが、モーセの後に現れた人たちが「全ては一体なのだから」この一文を10戒から取り除いて利用したことで混乱が起こりやすくなったとは言え、やはり本当は形があるようでないこの世界のあり方や、自分の肉体や思考についてのあり方に言葉で説明をして型をつけるということそのものに難しさが付きまとうものなのかなと、今はそう思っています。人により捉え方がそれこそ千差万別でしかない世界の在り方を一様に言葉で定義してしまうということ自体がカルマになってしまう可能性があります。

最近ご縁で知ることになった「イザヤからの手紙」というアニメ映画があります。背景の画がとんでもなく綺麗で、音楽もフルオーケストラ。ここは間違いなく見どころです。今日のタイトル画もそこから拝借しました。ほんとに綺麗です。アニメ好きとしては動きのアニメーションが所々稚拙なのが気になりましたが、聞いたらバングラデシュのアニメーターさんがすべて手掛けたとのことで、見るべきはその純粋さということのようです。ストーリーにはびっくりするほど抑揚が一切なく、映画としてというよりもヒーリング媒体として作られている印象でした。映画の最後でイザヤさんが2700年前に書いた手紙の全文が出て来ます(これは日本の淡路島で1995年に見つかったそうです。署名にあるイザヤ=ナギードを略すとイザナギ。日本人の略語文化、ここでかい!って感じですが。ナギードは古代ヘブライ語で「皇帝」という意味だそうです)。手紙は強い愛情を持って書かれたことは間違い無いし、間違ったことや嘘が一つもない(今日の宗教と一線を記すのはここですね)、現在の宗教という形態をとる以前の時代に、限りなく真実を伝えようとしてるのは明らかなんですが、まだエネルギーが平均的に重たかった時代に書かれたものだからか、エゴや自我に関する捉え方に関して何かが若干重たく感じました。戦争や捕囚、奴隷といった重たいエネルギーが蔓延していた時代に書かれたのもなので当然と言えば当然なのでしょうが、エゴや自我を「悪いもの」だと認識しているのは二極化の典型とも言え、少し古い時代によく「あれが悪い」「これが悪い」という犯人探しをするような思考パターンが流行っていましたが、そことも少しリンクする気はします。エゴや「自我」という言葉が定義する範囲も使う人によって違うので、それもあると思います。

私の感覚でお話しすると、エゴや自我は肉体に付随してついてくる自己保存ソフトウェアのようなもので、なくなれば割と簡単に死んでしまいます。環境の厳しい地球の上でも生きていけるようにと、愛が元になって付けられたものとも言えるし、自己保存本能を発揮できた肉体しか生き残らなかった結果とも言えるかと思います。肉体が壊れるかもしれない局面で「恐怖」を感じて回避行動を取れるように、という機能なので「恐怖」が原動力になっていて、そこから派生して「他者より優位な自分を見せつけること」で安全を確保しようとしたり、他にも色々な表現として出てくると思いますが、元にある自己保存機能そのものは、いいものでも悪いものでもないと私は考えています。現代にあっては、恐怖を煽ることでお金が儲かるような仕組みを作った人たちがいるので、そこには気を付けた方がいいですが。
数千年前、戦争が絶えず、人の皮を剥いだり奴隷にしたりといったことが日常にあり平均的にエネルギーがもっと重たかった時代にあっては、とにかくエゴや自我を少なくしていかないと、恐怖が強く出てしまうことをとにかく避けないと、自分のイメージが現実化して周りが恐いことだらけになるわ、怖いからと攻撃に出るとその返りが来てまた攻撃するという無限ループから出られなくなって大変、ということだったのではないかなと推測します。

私の感覚では、世界ってもっと何も無いんだけどな、空っぽでスッキリしていて光と希望なんだけどな、という感じで、イザヤさんと私とは思考の相性がバッチリというわけでは無いというだけなんだろうなとは思います。でも言ってることがあってるというのはわかります。

この映画、面白い効果があって、子役の声優をされたお子さんのご家庭でずっと聞き流していたら、お子さんは思春期になってもとても暖かい性格に育たれ、ある日お母さんが息子さんに「お友達みんな親のことあーだこーだ言ってるみたいだけど、あなたも何かあったら言ってくれていいんだよ?」こう聞いたら「お母さん、僕はお母さんが僕のこと信頼してくれてるって知ってるから言うことなんにもないよ」と返って来たと言う素敵なエピソードを聞きました。とても穏やかな人の一面を引き出す効果があるようです。映画と相性がいいお子さんだったのだと思います。

対象が何であってもそうですが、自分でない人のエネルギーをまとって生きると言うことには一定のリスクが伴います。本来の自分のエネルギー、自分だけの真実、自分だけの感覚、そこに戻りにくくなるからです。ユダヤ教開祖のモーセは晩年、多くの人に宗教という型を「インプットをした」ことをずっと悔やんでいたとアナスタシアの書籍にありましたが、自分ではない人の考えやエネルギー、表現に染まるということは、それが一見良さそうなものであっても悪そうなものであっても、本来の自分のエネルギーで生きるという意味においては偽りに当たってしまうのだと思います。そこは一応理解した上で一時的にお世話になりまーす、と思って観るのがオススメです。耳と目を使ったヒーリング、といったところでしょうか。映像と音楽を使うとエネルギーを調律しやすいのです(世界中の宗教でも平和を意図して上手に使ってます。一部の業界では悪用もされてますが…)。映画「イザヤからの手紙」は、ヒーリング媒体として疲れたりエネルギー不足に悩んでいる時には栄養ドリンクみたいで、ひとまず効果的と思います。見終わったら「ありがとう」と言って、映画のエネルギーを取って自分のエネルギーに戻ることをオススメします!


予告編(30分)ほとんどストーリーがこれでわかります↓

https://youtu.be/lozMEC2HoSU?si=uMzdU1eCH7OQI_EE


本編2時間半↓。ヒーリング媒体としてオススメ。レンタル一週間800円、購入2800円。

https://www.marthfilm.net/checkout/a-letter-from-isaiah-will-of-isaiah/purchase


インド占星術もやっています。チャート図や身の回りで起こることを分析して、宇宙の法則を通してどういうことか理解して次に進むためのお手伝いをさせていただいています。
黄泉胡波那よみこはな という名前で通話鑑定もできるように、こちらのサイトで主にやっています。

https://yomikohana.port-app.jp/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?