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予防マニュアル

 軽い空腹もあったが、何より珈琲が飲みたかった。目の前の男は延々としゃべっている。感覚が麻痺しそうだ。

 わたしが気もそぞろとわかると、急に声のトーンがあがった。

「いったい何年、外国にいらしたんですか」

 たった三年半だ。それは相手も承知している。よくそこまで母国の変化に無関心でいられるのかという嫌味だ。

 この国はあらゆる虐待防止に熱心になったらしいが、本質的なものでないことは、皮肉にも外国にまで伝わっていた。

「おさらいしますよ。これが資料です」

 何冊かの薄い冊子だった。その大半は、守らないと周囲に迷惑がおよぶという予防のマニュアルである。虐待そのものの予防ではなかった。

 頭にはいらない文面がならんでいた。
 曰く、家庭内のことが間違って周囲に伝わったとき。平均的ではないと疑われたとき。老人や子供が当局に対し"誤って"虐待を訴え出ないためには——。
 これらの書類に理解したとサインをしないかぎり、町にはいって姪に会うことはできないという。

 平均的でない家庭が当局の調べを受けると近隣のイメージダウンになるため、転入者のトラブル防止を目的に、町内の有志が保険会社を雇うのが慣例だそうだ。男はその担当者だという。

 外国帰りはそのリスクが高いため、書類の郵送ではなく面談をと依頼されたらしい。

「まさか事例まで説明しなくても、新聞くらいお読みだったでしょう」

 頭の中には三つの言葉が蛍光色で点滅していた。
 うんざり
 珈琲が飲みたい
 サインはしない

 帰国は親戚に事情が生じたためだ。最長でも二年ほど姪の暮らしを見守れば、また国外に出ることになっている。

 入国した直後でこれほど話が面倒ならば、姪を連れてあちらで暮らしたいほどだ。だがまだ六歳なのにわたしの事情で生活が変わるのは不憫に思え、決心がつかない。

 読んでいるかとの反応を引き出すため、男が目の前でボールペンの先端を無意味に動かす。

 頭の中で蛍光色のサインが点滅し、ボールペンの動きと重なった。
 うんざり
 珈琲が飲みたい
 サインはしない…

 ついに、我慢の限界がきた。

 わたしのほうから、尋ねてみた。
「失礼ですが、時給はおいくらですか」

 面食らった男に時給を答えさせ、その三倍を払うと告げた。

 姪の出国手続きが可能になるまで一緒にホテルに泊まれるよう、手配を依頼した。

 その場で簡単な契約書をしたため男にサインさせ、わたしは珈琲を飲みに出ることにした。

家にいることの多い人間ですが、ちょっとしたことでも手を抜かず、現地を見たり、取材のようなことをしたいと思っています。よろしくお願いします。