不思議な店
店の一部でペンキを塗り替えると話すと、もぐもぐさんはしばらく店にやってこなかった。そろそろ姿を見せるかという2月中旬、履き物屋の隠居が店で桜餅をほおばりながら「最近アルバイトを雇っているのか」と尋ねてきた。
もぐもぐさんのことだろうか。厨房を見せてくれと言われた日からすっかりうちとけて一緒に餡を作ったことはあるが、働いているわけではない——そう言おうとしたが、話は違った。若い男が店の片付けをしているのが見えたという。
誰でしょうねと答えておいたが、内心は「またか」である。
この店はときどき不思議なことがある。
たとえば、客がここを見つけられない。
秋の夕刻に、すでに明るくしていた店の前を、客が三往復してから「明かりがついてやっと店がわかりました」と、入店してきたこともある。だがわたしはそのとき店内から、その客が迷っているのに気づいていて、声をかけたいが手が離せないと思っていたのだ。
思えばわたし自身も、この店に客として立ち寄ったきっかけは誰かに「変わった店がある」と言われたことだった。
その話は、どこかおとぎ話めいていた。
当時はいまのようにテーブルはなく、店頭に簡易な椅子がいくつかあるのみだったが、そこにときおりフランス人形のようなドレスを着たおばあさんが美味しそうに団子を食べているとか、置物と見まごうほど姿勢を崩さない犬が誰かを待っているとか、そういった他愛のないことだった。
通うようになって数年後に、2階の住居部分も含めてわたしが店を引き継いだが、フランス人形さんには一度も遭遇していない。だが、いつのまにか座っていて茶を出そうと思うまに消えている、ある意味での不思議な常連さんが何人かいるようだ。わたしからは誰にもその話をしないが、客もまたわざわざ言わないだけで、何か噂をしているのかもしれない。
隠居が腰を上げると同時に、もぐもぐさんがはいってきた。ドアを笑顔で譲りあっている。客同士が和やかにしているのはいいものだ。
「ああ、やっと匂いが消えましたね」
わたしとしてはペンキの匂いは数日で消えた気がしていたが、やはり最近まで残っていたようだ。
もぐもぐさんは嗅覚と味覚がするどすぎて、日常生活に支障をきたしかねないほどだという。先日の厨房見学というのも、自分の舌では理解できない「何か」を、調理器具にしみこんだ成分ではないかと思い、確認したかったのだった。
そのときに結論は出なかったが、本人曰く、東京広しといえど、この
何か」の味がついている店はそうそうなく、この数年で新たに見つけたのは、当おやつ屋くらいだとのこと。
テイクアウトの店では親しくなるにも限度があったが、ここならば事情を話せば鍋を見せてもらうくらいはできるのではと、勇気をふるったのだそうだ。
たい焼きを作るので手元を見ますかと声をかけると、すぐにエプロンを身につけ、もぐもぐさんは手を洗いはじめた。