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「知り合いでは、ないですし」
わたしはどうやら、人に関して記憶力がよいらしい。
店の人間が驚くほどの勢いで「あんみつって、こんなに美味しかったんですね」と、がっつく女性。ときおり会釈する程度で会話は初めてだったが、それ以前から知っているような気がしていた。
あっという間に食べ尽くすと、次はかき氷にしようかという。見かねて自分に出されたばかりの温かい汁粉をすすめ、わたしは安倍川餅を注文しなおした。この分ではその安倍川も消えてしまうだろうか。
その女性は通称でTだった。母親が入院したそうだが、よほどその存在がストレスだったのか「こんな日は、こういう店にはいりたくて」と誘われた。
汁粉を食べ終わると、お通しの麦茶をひと息で飲み、Tはいかに自分が息苦しかったかを、語りはじめた。
母親に連れられ、逃げるように東京に来たのが小学生のころだという。山沿いの田舎では裕福だった気がするというが、母親が交流をすべて絶ち、記憶が薄れてしまった。よほどの事情なのだろうと子供心に考えた。
そして友達づくりを制限された。誰かと仲良くなりすぎると、見つかりやすくなると言ったそうだ。誰になのかは、わからなかった。
「犯罪でもやって逃げているんだろうと言ったら、すごい形相で」
Tは、声高にしゃべりつづけた。
引越しやすいようにと母親は家財道具を増やさず、実際に数年おきに転居した時期もあったという。
「うちの親、知っている人と話をするなと言ったんです。しかも何気ない話をするなと。普通は逆じゃないですか」
そこで下をペロッと出して、Tは言った。「少なくともその教えは、守っていますよね。わたしたち、知り合いではないですし」
知り合いでは、ない——
皮肉にもそれで、わたしはTを思い出した。
二十年以上前になる。沿線の駅にある喫茶店だった。子供が食べたがったプリンアラモードが出る前に自分のアイスコーヒーを飲み干した女が、人目もはばからず、店の人間に何かをまくしたてた。「わたしたち、知り合いではないですし」と、たしかに言った。
わたしは子供が気の毒になり、自分の席に呼んで、そこでプリンを食べさせたのだ。
あのときの、子か。
厳密には「知らない人」ではない。だがわたしが言わないかぎり、Tがそれを知ることはないだろう。
だが、悪ふざけをしたい気持ちもあった。プリンを注文しないかという言葉を、その日は何回も呑みこんだ。
その日からTを見ていない。
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