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ひとはいつからでも変わることができる  #未来のためにできること

 いつの頃からか僕は謝ることができなくなっていた。

 子どもの頃、お母さん、お父さん、学校の先生に「悪いことをしたら、ごめんなさいしようね」と言われ続けていた。
 素直に「ごめんなさい」が言えると大人から褒めてもらえた。
 「えらいね」「素直だね」、そんな言葉をかけてもらえると自分の行動が誇らしく思えたものだった。

 思春期に入ると周囲の大人や友達の言葉にイライラすることが増えてきた。
 「うっせぇな」「うざい」「お前には関係ねぇだろ」「馬鹿じゃねぇの」
 そんな言葉ばかりを吐いていた。
 弱みを見せたら生きていけない、弱みを見せたら付け込まれる、漠然とそんなふうに思っていた。
 やり場のない鬱々とした気持ちを持て余して、周囲の人たちを傷つける言動ばかりしていた。「ごめんなさい」、そのひと言がどうしてもでてこなかった。
 その言葉は、僕にとってとてつもない劣等感と罪悪感、羞恥心をもたらすものだった。
 
 社会人となり、家庭をもっても、その気持ちは同じだった。謝ることは、負けること、自分の尊厳を踏みにじられる行為と思っていた。
 自分を取り繕うために吐いた暴言が、たとえ他人を傷つける言葉だったとしても、自分が傷つくよりはましだと考えていた。

 そしていつの間にかひとりぼっちになっていた。

 職場では上司や部下からは敬遠されるような存在になってしまっていた。
 妻と子どもからも疎まれる存在になってしまっていた。

 僕の居場所は、どこにもなくなってしまった。

 自業自得、仕方がないこと、そう思ったところで、僕がこれまで傷つけてきてしまった人たちの気持ちが晴れることはないだろう。
 申し訳ない、反省しています、そんな言葉も何の慰めにもならないと思う。

 僕がすべきことは、傷つけてきてしまった人たちの気持ちに共感し、間違った思考と価値観を改めること。
 他人とのより良い関係性を築けるようにコミュニケーションスキルを学ぶことだと思う。

 自分ひとりの力ではどうすることもできずにこれまでの人生を過ごしてきてしまったが、今の僕には一緒に学ぶ仲間たちが見つかった。

 過ちを犯してしまったものとして、傷のなめ合いではない、馴れ合いでもない、仲間たち。
 DV加害行為を手放すために集まった加害更生プログラムの参加者たち。

 「反省はひとりでもできるが、更生はひとりではできない」

 僕のような人たちに更生プログラムの存在を知ってもらいたいと思う。

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