罰金? ハードル? 〜 “供託金“を考える
供託金は何のため?
日本では、国会議員の選挙に立候補する際に供託金が必要となる。小選挙区の場合、300万円。比例区の場合は1人あたり600万円(※例外あり)とかなり高額だ。
供託金を設ける理由としては、売名行為や乱立を防ぐためとされている。早い話、立候補者に準備と覚悟を求めるものと言っていいだろう。
記憶に新しい東京都知事選の時も、立候補者は300万円の供託金を払って出馬している。その数、56名。
供託金はうまく機能していたのだろうか? 私見であるが、本当に準備と覚悟があったか疑問に思う人数と中身であった。ただ、供託金がなければ、もっと増えていたと考えると、やはり何らかのハードルは必要に思える。
この供託金、選挙後にどうなるかご存知だろうか?
得票数が一定以下だと全額没収、それ以上だと全額返還されるらしい。没収された供託金は国庫に納められるとあり、ここから先、何に使われるかは不明である。(総務省ホームページより)
ここで疑問に思わないだろうか? なぜ一定数の得票を得たら返還で、あまり支持されなければ没収なのだろうか?
「お前などが出馬しおって! 身の程知らずめ!」
みたいな罰金なのだろうか? あるいは、得票が少ない=売名行為という法定式があるのだろうか?
だが、それはおかしいではないか? 被選挙権があれば誰でも立候補できることは法で認められた国民の権利である。なぜ、得票数が少なければ供託金は没収されるのか? 得票数が多ければ返還されるのか? なぜ、得票数によって供託金そのものにまで明暗を分ける必要があるのだろうか?
供託金以外でも覚悟は示せる?
いや、そもそも準備と覚悟を金銭で計るのは正しいのだろうか?
乱立は避けたい。冷やかしや売名行為でなく、覚悟も持って欲しい。もっともである。
だが、それが金銭でいいのか? 例えば供託金ではなく、半年の年月をかけて選挙活動を行なう上で知っておくべき法律、そして国会議員として当然、知っておくべき法律の研修を義務付けるなど、別の方法で準備と覚悟を示してもらってもいいのではないだろうか。
この研修には、多くのメリットがある。初の選挙で選挙活動を間違えないこと。そして新人議員が国会議員になった後、知らなかったではすまされない凡ミスでの辞職を減らす効果がある。そして会計や議員立法の仕方など、政治活動をする上で必要な手続きを政党の先輩からではなく、この研修で学ぶのである。
私も含めて、案外、身近な法律でも知らないことがある。初めて国会議員になった人は、今の私たちと大して変わらない知識量だったりする。(それでも、議員になれることが健全だし、国としてメリットが大きいと私は考える)。
せっかく志を持って立候補したのに、よく知らないがために、何もできないうちに辞任するのはあまりにも勿体無い。国としてもコスパが悪い。つまり、事前の研修は、当選後の議員をまもるためでもあり、議員が1年目からしっかり働けるためであり、つまりは日本のためになると思っている。
またこの研修は、長期長時間にわたって座ったまま集中力を途切れさせない、そして、発言や質問の場も提供し、国会議員の実務に必要な体力精神力を試される場にもなる。居眠り禁止、即退場。次回、退場となったところから研修を受け直すことになる。このハードルを設けることで、議員としての活動に必要な持続的な覚悟も試されることになる。そして仕事への意識と集中力を保てる議員が増え、いつも居眠りしている議員をテレビ中継で見ることも少なくなるだろう。
半年は長いだろうか? 3ヶ月集中の方がいいだろうか?
いずれにしろ、そのことで議員が躓かず、不慣れなために先輩議員に極度に依存せず、思い切り活動できるのなら、研修のその時間は有益なのではないだろうか。
現役議員の覚悟の計り方は・・
では、現役議員はどうすればいいのか?
半年の研修は時間の無駄である。国会議員である以上、議員としての仕事に邁進してほしい。それに、前回の研修からの変更点についてのみ研修で確認すれば十分である。
それよりも現役議員について必要なのは、選挙での公約と、議員期間中4年間の議決での賛否、議員立法などの功績について所定のフォームにまとめて公表することではないだろうか。
つまり議員としての実績が候補者の覚悟が本物であったか、そして実行力を示すことになる。
そのための前段階として選挙に立候補を届け出た時点で、公約を同じフォームでの提出を義務付けておく必要がある。再々選以上の場合は、過去の全ての任期での公約と功績についても公表の義務を負うものとすると、どんな候補者なのか有権者にわかりやすいのではないだろうか。
なぜ300万円なのか?
供託金制度について私が疑問に思うのは、全てを金銭ではかろうとすることにある。そして、300万円の価値についてである。
金は非常に便利なものである。金額をつけることで商品の価値が決まる。だから、たとえば100円の覚悟と100万円の覚悟を比べたら、100万円の覚悟の方が、より覚悟があると私たちは習慣的に考える。
だが、そこには落とし穴があることを忘れてはならない。
300万円の価値は人によって違うのだ。年収300万円〜500万円程度の人にとっては、この供託金は覚悟がいるだろう。だが、年収3千万円稼いでいる富裕層にとって、300万円は痛くも痒くもないだろう。その視点を持ってこの制度を眺めると、所詮は庶民に課せられたハードルでしかないことに気づくだろう。早い話、富裕層に有利な選挙制度になっているのだ。
この制度の前提となっているのは、現役国会議員の年収である。
歳費 月額130万1000円 ➕ 期末手当 年2回(ボーナス)
文書交通費 月額100万円(領収書不要)
これだけでも合計3000万円の年収がある富裕層である。もし、国会議員の年収が300万円なら、300万円の供託金制度は現存していないはずである。
そこで、もう一度、300万円の供託金を振り返ってみたい。
“供託金“制度で、民主主義は守れるか?
果たして、この供託金、何の目的で作られているのだろうか?
本当に準備や覚悟を示すのに供託金という制度でいいのだろうか?
ちなみに外国の供託金との比較をネット検索すると、OECD35カ国で供託金制度があるのは13カ国。その中でも日本が1番高額なのだそうです。
そこで思い出すのが、日本の国会議員の年収です。
2019年時点で、日本はシンガポール、ナイジュリアに次いで3位の世界最高水準にあります。世界最高の供託金と世界3位(最高水準)の年収とは、全くの無関係なのでしょうか?
供託金を払える人しか国会議員に立候補できない。つまり、富裕層には低く、庶民には高いハードルとなっている。年収の高い国会議員には当然、ハードルが低い。あるいは相対的に、若者よりは長年働いて資産のある中高年の方がハードルを低く感じるかもしれない。平均年収の高い男性の方が、女性よりもハードルが低いかもしれない。
一律の供託金はこのような構造上の優位者を生み出しているし、国会議員の属性が富裕層、再当選が多い、中高年、男性に偏る一因となってはいないだろうか。
本当に法の平等は守られているのか?
金は便利で全ての人にとって貴重品ではあるが、道具の一種に過ぎずスケール(計り)の一種に過ぎない。しかもこのスケールは、人によってかなり違う目盛になっている。
民主主義の国会に立候補する条件が“金“で、本当にいいのだろうか?