感情電車、情報と暴走
(このnoteは以前投稿した複数の記事をまとめたディレクターズカット版です。考察内容は若干変わっています)
感情電車について。
ここでは、感情電車のテーマを「死」と捉えて話を進めます。楽曲の背景等からできれば避けたい話題ではありますが、敢えて踏み込んでもよいという方はお読みください。
「その空」という歌詞がずっと気になっていました。
「同じ空の下」という言葉があるように、空はつながっていると考えるのが自然です。イコラブさんが『この空がトリガー』という楽曲を出していますが、会話の相手がどこにいても同じ「空」を指しているのだから、指示詞を入れるなら「この」が自然です。
逆に、「その」にすることにより「別の」空だということが強調されます。
では、別の空とはなにか。
少し話を変えます。「咲いているあなたの肌に触れた時 泣いた」という歌詞。
なぜ「触れた時」に「泣いた」のか。
泣く理由はたくさんあります。感動だったり嬉しさだったり。もちろん悲しくて泣くこともあります。どのような場合でも、自分のおおよその予想または願望が裏切られたことで発生するものではないでしょうか。優勝するのが当然という大会で優勝しても泣かないでしょうが、もし負けたら感情は揺さぶられると思います。
それでは、「触れた時」に自分の予想、願望が裏切られるとはどういうことか。最も考えやすいのは、冷たかったということでしょう。
場面こそ分かりませんが、亡くなった「あなた」の肌を触ったら冷たかった。いつもの肌の感触とはまるで違っていて、泣いてしまった。これがしっくりきます。
それでは「咲いている」とは。
あまりにも安らかで、まるで生きているようだったのか。それとも、桜は散っている姿が最も美しいというように、物理的には咲いていなくても「咲いている」と表現できるほど表情が美しかったのか。
個人的な予想ですが、主人公からしたらまだ散ってすらいなかったのではないでしょうか。
キーワードは「インフォメーション」。この曲では二度、登場します。
1番Aメロ「インフォメーション走らす境界線をまた引っ張って」と、2番Aメロの「インフォメーション絶賛継続中の目を引っ掻いて」。
先に2番から考察します。
「インフォメーション絶賛継続中の目」とはなんでしょうか。そのままだと意味が分かりづらいですが、言い換えると「情報を現在も継続して受け取り続けている私の目」だと思います。
それを「引っ掻いて」いる。つまり、情報を受け取りたくないんです。死んだという事実を受け入れたくないんです。
この曲、死んだ好きな子を悼む曲にしては好きな子の情報が皆無なんですよ。私はあまり音楽に詳しくないので二宮和也さんの『虹』くらいしか思いつきませんが、『虹』は死んだ恋人との思い出を振り返る楽曲です。しかし、思い出を振り返るような描写はこの曲に存在しません。
思い出を振り返るにしてはまだ受け入れられていない。死んだ「あなた」を見たくないから「目を引っ掻いて」しまうほど、感情が優位に動きすぎているんです。ちなみに『虹』も全ての歌詞が現在形なのである程度その気味はあります。
逆を言うと、「情報」を受け入れることは「あなた」の死を受け入れることになる。言い換えると「あなた」が死んだことになる。「情報=インフォメーション」は、生死の境界線なんです。ここで1番Aメロにつながります。
そういえば感情が優位に動きすぎているでいえば、「どこにも止まれないよ」という歌詞がありますが、「止まれない」というほどなので"止まりたくても"「止まれない」のでしょう。「目を引っ掻いて」いるのが比喩かどうかまでは分かりませんが、少なくとも「あなた」が死んだという「情報」は遮断され、「あなた」に関する情報が"止まってしまった"。その影響で感情が優位に動きすぎて、その加速が止まらない。感情の加速を止める手段は死を受け入れる(情報を受け入れる)ことしかないのですが、それを拒否しているんです。タイトルの『感情電車』とはそういう意味が含まれている気がします。
さて、もうひとつの「インフォメーション」である、1番の「インフォメーション走らす境界線をまた引っ張って」について考えてみましょう。
これが難しいのですが、「引っ張って」の解釈が2通りあります。
1つ目が、「境界線を『引っ張って』取っ払う」という意味。情報云々以前に、生と死の境目なんで無くなればいい!と考え、主人公が自分の中で生死の概念を取り除いている。
つまり、主人公の中で「あなた」は永遠に生き続ける。
この場合、その次の「情報なんて持っていなくたって道はどうにかなる」は「生死の概念なんてなくても大丈夫」という意味だと捉えられます。しかし、「境界線を『また』引っ張って」の「また」はどういう意味なのか、説明がつきません。
もう一つの説が、「物理的に境界線を『引っ張って』いる」という説です。
当然、主人公は「生」側の人間です。世界を「生」と「死」のふたつに分け、「生」側から境界線を引っ張ると、主人公は「死」に近づきます。
この説に至った理由として、「どこにも止まれないよ」は感情が優位に立ちすぎて暴走が止まらなくなるということ。その結果、どうなるか。自殺ではないか、と考えたことです。
「情報なんて持っていなくたって道はどうにかなる」とは、「情報」を結局受け入れなかった主人公が最終的に道を見つけたということ。その道が、「死」だった、と。
「また」についても、「あなた」の後について、「また」私も、という意味だと推測できます。
ちなみに、この曲には「離しはしないでよ」「こぼしはしないでよ」と誰かが語りかける歌詞がありますが、おそらく言っているのは「あなた」でしょう。
後者は「愛情百杯はすくって」に掛かっているのでしょうが、「離しはしないでよ」に関しては「いつまでも一緒だからね」感があって少し怖いですね。
もうひとつ余談ですが、「境界線をまた引っ張って」において「また」は確実に「引っ張って」に掛かっています。引っ張るという行為はどう考えても自発的なものなので、「あなた」も自殺だったと推測できますが、ここまでいくと飛躍しすぎていると言わざるを得ませんね。
お気づきの方はいると思いますが、死んだことを受け入れていないのに「また」死のうとしている時点で論理は破綻しています。まぁ受け入れたくなくて目を引っ掻いているんだから死んでいることは本当は分かっているのでしょうが。
あまり考えたくない説でしたが、あくまで二次創作的な観点から考えてくださったら嬉しいです。