漫才の存在意義

漫才というものは、おかしなこと、非常識なことを言っているボケに対し常識的なツッコミが訂正することで笑わせる芸能である。

ここで考えて欲しいのが、

常識  ツッコミ&観客
非常識 ボケ

ということである。圧倒的にボケが少数派なのである。

つまり、漫才とは多数派が少数派を罵倒しているという芸なのだ。

少数派がくだらないことを言っているから笑いとして成立しているが、超客観的に見たらこれは多数派が少数派の意見をかき消している、社会の闇を表しているような気もする。

昨年のM-1グランプリで大躍進したぺこぱには、それを変えようという意思を感じた。

ぺこぱのツッコミ・松蔭寺はボケ・シュウペイの「非常識」なボケを肯定する。少数派の意見をかき消そうとはせずに、その意見を大切にしている。

松蔭寺はもともと社会問題に興味があったようだし、ネタ中にも社会問題の風刺をしている場面があるので、彼は芸風自体で社会風刺をすることを狙ってこの漫才をしているのかもしれない。

また、かまいたちの「ポイントカード」のネタは、前回の投稿で述べたように、少数派・山内が、多数派の考えを持つ濱家を論破して、客を巻き込んで最終的に山内の考えが多数派、濱家が少数派になる構成の漫才である。

オードリーの若林は、少数派が多数派のツッコミを越えていく漫才に、多数派に屈するなという姿勢を感じたと言っていた。さすがにそこまで計算していたとは思えないが、こういった漫才からも社会を変えていくという気持ちが読み取れるかもしれない。

昨年のTHE MANZAIでウーマンラッシュアワーが、例年と同様に社会問題を前面に押し出したネタを披露した。村本は、これを嫌う人がいてもごく少数の人はこれを見て涙を流してくれる。僕はその人のために漫才をする、と言っていた。

漫才で社会問題を語ってはいけないというのはおかしいのではないだろうか。ただでさえ社会問題は避けられているのだから、少しでも興味を持ってもらうために、ネタで社会風刺をすることの何がおかしいのだろう。

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