#5 「日曜の午後は空いているから、とりあえず近くの城を埋めていこうか」私たちは、近場の城でスタンプ帳を埋めていくことを当面の目標に定めた
2016年11月3日(木・祝)に岡山県内の日本100名城、4城のスタンプを辛うじて押印した私たちは、その3日後の日曜日、早くも次の動きに出ることにした。
岡山県の城めぐりでは、反省すべき点があった。4城目の津山城のスタンプが押印できたのは幸運というしかなく、やはりお金をかけて遠方に足を伸ばすからには、確実に、スタンプ設置場所に辿り着ける時間を考慮した旅程づくりをしなければならない、ということだった。
のちのち知ることになるが、実は11月から3月の晩秋・冬季期間は城めぐりの最適期である。落葉樹の葉が落ちるため、よく茂った木の葉に隠れがちな石垣がよく見える、ということがある。また土の城の場合、樹木はもちろん、下草も枯れるため、土づくりの遺構の構造がよりわかりやすくなる。
しかし一方で、冬季は雪という大敵が突如襲来することがある。私の暮らしている滋賀県南部では、ここのところの暖冬傾向もあり、以前に比べて降雪日数も積雪回数もかなり減った。近場をドライブするぐらいなら、わざわざタイヤを替えることもないだろうと、スタッドレスタイヤは購入していなかった。
そこで、年内のうちに滋賀県内をはじめとする近場の城をめぐり、1、2月は休止することに決め、早速隣県、三重県の2つの日本100名城、「伊賀上野城」と「松阪城」を攻略することにしたのだった。
私の住む大津市には、古代にまで遡る交通の要衝として知られる「瀬田の唐橋」がある。ここを起点に、三重県紀北町に至る国道422号が走っており、この国道をたどっていけば、伊賀上野へは簡単にたどりつける。だが、実際には決して簡単ではない。国道422号の甲賀市信楽町から伊賀上野へ至る山越えの道は、一部区間がいわゆる「酷道」(車1台の幅しかなく離合が困難な、国道とは思えないほど酷い道)となっており、通過の際には異様な緊張を強いられる。2018年に、この一部区間を迂回する「三田坂バイパス」が開通し、現在ではこのストレスは解消されているが、それまでは、このルートのせいで「近くて遠い」場所といっても過言ではなかった。
このバイパスが開通する前だった当時は、国道422号の酷道区間を回避するため、伊賀市丸柱から国道422号につながる県道674号を進み、阿山方面から山を下ったのちに伊賀上野城へ行くルートを取っていた。
実は2014年のゴールデンウィークに訪れて以来、伊賀上野城は2度目の登城となる。そんなこともあり、この城の見どころである高石垣を上から見下ろしてその高さを実感するなどしたあと、天守1階のスタンプ設置場所でスタンプを押印すると、足早に次の目的地へ向かった。
ここで、日本100名城スタンプラリーで沖縄県を除く全都道府県を走破することになった愛車、ルート案内に大きな役割を果たしたカーナビゲーション、そしてカメラを紹介しておこう。
足となった自動車は、2012年式の三菱「ミラージュ」である。色はレモネードイエローメタリック、当時黄色い車は結構珍しかったと思うのだが、車本体がかなり凡庸なシルエットなだけに、大規模店舗の駐車場などでも探しやすいという理由で、この色にした。ガソリン車だが空力特性に優れているため非常に燃費がよく、安定感のある乗り心地で長距離ドライブでも疲労しにくいということがあった。また、軽自動車のスペースにも駐車ができるコンパクトな車体で小回りもきくため、細い路地や山道に入り込まなければならなかったり、道を間違えてUターンしなければならないときでも、切り返しが効いて運転しやすいという長所があった。
この車に搭載していたのが、パナソニックのカーナビ「ストラーダ」である。DVDに入ったデータを読み込む方式のカーナビで、機種自体は2004年頃の古いものだが、DVDを2014年版に入れ替えたため、データはそこそこ新しく、十分使用に耐えた。ただ、パナソニックに限らずカーナビの常だが、ルート検索では最短距離をまず出してくる、というアルゴリズムになっているのかどうか、うっかりルート確認をしないでそのまま案内を開始すると、とんでもない山道に連れ込まれたりするので、注意が必要であった。また、店舗や施設などを目的地にすると、なぜかいつも、表の入り口ではなく建物の裏側の方に案内するのも謎仕様だった。
このカーナビだけに道案内を任せるのには不安がある。そこで、常に携帯するよう心がけていたのが、昭文社の「ツーリングマップル」シリーズである。ナビの表示したルートが本当に正しいのか、国道を優先的に選んで「酷道」を走らされることになったりしないか、また目的地に行くまでに立ち寄れる道の駅や温浴施設、観光スポットなどがないかをチェックするのに、非常に役立った。もちろん、カーナビは車に乗った状態でセットするものなので、それ以前の旅程の計画段階で、より効率的なルートを探し出すのに必須のアイテムとなっていた。
そして、写真撮影に使っていたのは、ニコンのコンパクトデジタルカメラ「COOLPIX S550」であったかと思う。というのは、この先続けてゆく城めぐりの途中で、このカメラは災難に遭うことになるのである。その災難の話は、ゆくゆく語ることにするとして、このカメラはコンデジでありながらズームもよくきき、本体についた液晶モニターも大きくて見やすく、非常に使いやすいカメラだった。昨今では、旅の写真はスマホで撮るのが一般的だが、私は今でもデジカメ派である。スマホは非常に使いやすく、手軽にきれいな写真が撮れるが、うっかり手をすべらせると落とす危険が常にある。特に高所で撮影することの少なくない城めぐりでは、ストラップで首からかけることのできるカメラの方が安全安心である。
さて、話を城めぐりに戻そう。伊賀上野城を出た私たちは、次に三重県のもう一つの日本100名城「松阪城」へ向かった。
スタンプ設置場所になっている松阪市立歴史民俗資料館に立ち寄ったあと、松阪城へ。本居宣長記念館の駐車場に車を停めて登城することにした。松阪出身の本居宣長の旧宅「鈴屋」が保存のため1909年に松阪城跡に移築され、国史跡として公開されており、この旧宅の庭を通り抜けると本丸に入っていけるようになっている。
松阪城は、近江・日野出身の戦国武将で、織田信長の配下で頭角をあらわした蒲生氏郷が築いた城である。総石垣の城、安土城を見てきたからだろうか、この城も見事な石垣が築かれており、しかも、石垣の上に柵などもないため、際まで寄って下を見下ろすことができる。
蒲生氏郷は築城の際、日野城下から近江商人を連れてきて、商業の振興を図ったという。また、レオンの洗礼名を持つキリシタンだったが、商業とキリスト教を結ぶ面白い接点がある。ルネサンスの頃、イタリアで使われはじめたのが複式簿記だが、日本の商人の中で複式簿記を使っていたのは近江商人、それも蒲生氏郷の出身地である日野の商人だけだったという。日本に来ていたイエズス会の宣教師も複式簿記を使っていたことから、キリシタンであった蒲生氏郷が、宣教師から学んだ複式簿記を商人に使わせたのではないか、と、小説家の安倍龍太郎はその著書『レオン氏郷』の中で推測していた。
松阪には関ヶ原の戦いのあと「松坂藩」が立てられたものの、大阪の陣の後、紀州藩の領地となり、松阪城にはこの地を統治するために城代(城主に代わって城を管理する役職)が置かれ、城は明治維新後の廃藩置県で廃城になるまで存続したという。
この日巡った城は、奇しくも、どちらも近江出身の武将が築城に携わった城だった。彼らが構築していった近世の城造りは、やがて遠く離れた東北にまで伝えられていくことになるが、私たちがそこまでたどり着くのは、もう少し先になりそうである。