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#4 「せっかくの祝日だから、城めぐりでもしようよ。何県に行く?」この考え方が間違っていることを、教えられた旅だった

 11月3日は文化の日で祝日である。2016年は、ちょうど週の真ん中だった。9月と10月の旅行で「日本100名城」スタンプラリーが出かける目的になってしまった私たちには、他の選択肢はもうなかった。
「せっかくの祝日だから、城めぐりでもしようよ。何県に行く?」

 日本100名城は、全国47都道府県に最低1城、最大5城が選定されている。例えば近畿エリアでは京都府、奈良県、和歌山県が各1城、大阪府が2城、滋賀県が4城、兵庫県県が5城である。この辺りは、その気になればいつでも行けるので、少し足を伸ばして、4つの城が選定されている岡山県を周ろうということになった。岡山県からは「岡山城」「鬼ノ城」「備中松山城」「津山城」の4つが選ばれていた。11月3日の祝日は木曜日だったため1日で周り切らなければならないが、前日の仕事終わりに家を出て、姫路あたりで前泊すれば何とかなるのではないか? ちょうど、姫路に行ってみたいグルメ系回転寿司の店があったので、そこで夕食をとることにし、翌日岡山県の城を攻略するという計画を立てた。
 しかし、その考えは甘かった。

【2016年11月2日(水)・3日(木・祝)】
1日目:自宅(滋賀県大津市) →兵庫県 姫路市内(宿泊) 
2日目:兵庫県姫路市内 → 岡山城(岡山市) → 鬼ノ城(総社市) → 
 備中松山城(高梁市) → 津山城(津山市) →  帰路

 11月2日水曜日、仕事を終えて帰宅すると、私たちは一路姫路へと向かった。評判がいいということで訪れてみたかった「すし官太」で寿司を堪能したあと、姫路城近くのホテルに投宿。翌朝、そこから岡山へ向かった。

うっかり手にすると、結果的に数百万円を旅費に
費やすことになる「日本100名城公式ガイドブック」


 岡山城は、市内を流れる旭川を天然の堀とし、川に面して本丸が、その対岸に岡山藩二代藩主・池田綱政が築いた大名庭園「後楽園」がある。二の丸・三の丸のあった場所には県立図書館や県庁が立ち並び、まさに岡山県の中心地となっている。 
 私たちは、市内の国道沿いのモスバーガーで朝食を済ませ、岡山城へ向かった。その後何度も経験することなのだが、江戸時代に藩庁となっていた城は、近くまで来てからなかなか距離が縮まらなくなる。その時代の中心地が今も中心市街地になっており交通量が多い、ということももちろんあるが、城に近づくにつれ城下町の町割りが残るため一方通行が多くなり、まるで迷路にはまり込んだようになってしまう。加えて防御を固め敵の軍勢が近づきにくくすることを目的に構築されているだけに、実際、なかなか近づけないのである。そんなわけで、近くに見つけた駐車場に車を入れたときには、もう午前10時を過ぎていた。

岡山市内を流れる旭川は、岡山城の天然の堀になっている。
本丸を囲む内堀
関ヶ原の合戦直後に築かれたとみられる、古い石垣。
宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城したといわれる、岡山城。
その後城主となった小早川氏、池田氏により城郭と城下町の整備が行われた。

 烏城公園と呼ばれる本丸には、黒壁の天守がそびえている。天守閣入り口は、入場券を購入する人の列で混雑していた。見ると、この日ウルトラマンが岡山城に来るという。内部を見学している間に、混雑に巻き込まれてはあとの日程に差し障る。ここはひとまず、スタンプラリーに徹することにし、入り口に設置されたスタンプを押印した。ちなみに、4城目ではじめて、自分以外にこの100名城スタンプを押印している人を見たのが、ここ岡山城であった。

外壁が黒塗りの下見板で覆われていることから「烏城」とも呼ばれる岡山城。
1945年に空襲で失われ、1966年に往時の姿で再建された。
訪れた2016年は天守再建から50周年ということで、記念のイベントが行われていた。

 しかし、次の城へ移動しようとしたところで、またもや困ったことが発生する。目指す岡山県総社市の鬼ノ城だが、城の名前で検索しても、カーナビには出てこない。そこで、スタンプ設置場所の「鬼城山ビジターセンター」で検索しようとしたが、カーナビは仮名文字で入力しなければなない。漢字の読み方がわからなければ、検索できないのだ。「鬼城山」の正しい読みが分からず、結局マップルのツーリングマップをたよりにするよりなかった。今ならスマホを使ってGoogleマップで検索すればすぐ解決するが、あいにく当時私たちが使っていたのはガラケーだった。
 それでも、総社市に入り、目的地が近づいてくると、車窓から見える山の上に、どう見てもあそこが城跡でしょう、という場所が見えてきた。こうなると、なぜかしらテンションも上がる。しかし、ここだ、と思ったところは鬼ノ城ゴルフ倶楽部だった。クラブハウスで受付の方に聞くと、正しい場所を教えてくれた。よく間違えられるらしく、手製の地図も用意されていた。こうしてようやく「鬼城山ビジターセンター」の駐車場に行き着いた。

正面の山の尾根に、城跡らしきものが見えてきてテンションが上がった。

 鬼ノ城は100名城の中でも数少ない「古代山城」の一つである。645年、中大兄皇子が中臣鎌足とともに行った「大化の改新」から18年後の663年、百済復興を目指す日本・百済の連合軍と唐・新羅連合軍との間に戦争が起こる。「白村江の戦い」である。この戦いで大敗を喫した日本軍は百済からの亡命者をとともに帰国するが、中大兄皇子はこれを機に唐が日本に侵攻してくることを恐れ、侵攻ルートになると考えられた九州から瀬戸内海にかけての海域の防御を固めるため、西日本各地に多数の山城を築いた。鬼ノ城は、その際に築城されたものの一つと考えられている。ビジターセンターには、こうした歴史背景や鬼ノ城のジオラマ、模型、出土した遺物などが展示されている。

ビジターセンターには、城跡全体のジオラマが展示されている。
山域に土塁が築かれ、広大な遺跡が広がっていることがわかる。

 城は鬼城山山頂部の山域全体を土塁で囲む形で築かれており、周囲およそ3キロメートルをめぐるハイキングコースが整備されている。展望台から復元された西門方向を見ると、はるか向こうに瀬戸内海が見えた。城跡からは鍛治工房や高床倉庫の礎石なども見つかっており、鉄製の武器の製造もできる本格的な山城だったようだ。その築城技術もまた、滅亡した百済から逃れてきた亡命者たちから伝わったものなのだろうか。今まで見たことのなかったタイプの城の新鮮さと、はるか古代に築かれた城のその規模の大きさに圧倒されつつ、ひとときの散策を楽しんだ。

古代朝鮮式山城で、白村江の戦いで百済と日本が敗れて百済が滅亡したあと、
唐の侵攻を恐れた中大兄皇子が西日本各地に築いた城の一つと考えられている。
この土壁のような盛り土は、土を固めて造った、古代の土塁を復元したもの。
復元された西門。
展望台からの風景。山の向こうに瀬戸内海を望み見ることができる。
城跡は、散策を楽しむ多くの人でにぎわっていた。山城から見下ろす風景は格別である。

 鬼ノ城を出るころには、もう12時半をすぎていた。次の目的地の途上で適当な店があれば入ろうということにして、高梁市にある備中松山城へ向かった。しかし、道中で適当な店を見つけられないまま、備中松山城の駐車場まで来てしまった。ここで私たちは、またまた厳しい現実を突きつけられることになった。標高430メートルと、最も高いところに現存天守がある備中松山城には、駐車場からシャトルバスに乗り換えなければアプローチすることができない。そのシャトルバス乗り場に、長蛇の列ができていたのだ。現存天守のある城、しかも紅葉シーズンとあっては、多くの人が繰り出すのも無理はない。ただ、それだけが理由ではなかった。実はこの年放映されていた大河ドラマ『真田丸』のオープニング映像に、この城が登場しているというのだ。これは、否が応でも期待が高まる。

 シャトルバスでおよそ5分、そのあと、徒歩で登り道をおよそ700メート歩くと、ようやく大手門に辿り着いた。道は険しく、ちょっとした登山という感じだ。だが、その先には圧巻の風景が広がっていた。

2016年の大河ドラマ「真田丸」オープニングの映像素材に使われた備中松山城。
ボランティアガイドさん曰く、NHKからは「協力 高梁市」の一言もなく‥‥

 備中松山城の歴史は、およそ780年前に遡る。1240年、承久の乱で先行のあった秋庭重信が地頭としてこの地に赴任し、臥牛山に砦を築いたことにはじまるという。城主はその後転々とし、戦国時代には毛利氏に攻められて落城、しかし関ヶ原の合戦で西軍が敗れると、西軍についた毛利氏は中国地方一帯の広大な領地を奪われ、長州へと追いやられた。そして幕府直轄地となり、小堀正次・遠州が代官としてこの地を治めたのち、1671年に池田長幸が入って「備中松山藩」となり、その後1642年に藩主となった水谷勝宗により城下町が整備されるとともに、城郭が大修復され、今に伝わる姿になったという。

臥牛山の頂の一つ、標高430メートルの小松山山頂に築城されている。
天然の岩山の上に築かれた石垣の迫力に圧倒される。
幾重にも重なって見える石垣も圧巻である。

 大手門跡から見上げる、天然の岩盤の上に築かれた石垣と土塀、そして三段、四段と折り重なるかのような石垣の造形が見事で、よくこの高さの山城にこれだけの石垣が築けたものだと、当時の武将の城造りに賭ける情熱に驚かされた。と同時に、細い山道を登って行ったその先にドーンと現れる構造の圧倒的な存在感、という山城の魅力に、ここではまり込んでしまったのだった。

江戸時代はじめの1683年に今の城郭が完成した。唯一、山城として現存天守が残っている。
明治維新以降、狐狸のすみかとなり荒れ果てていたが、1940年に修復され、
翌年、(当時の)国宝に。戦後、国の重要文化財に指定された。
珍しく、天守内に囲炉裏が設けられていた。籠城戦の際、城主の食事の調理・暖房用に作られた。
現存の二重櫓。天然の岩盤の上に石垣を築いて建てられている。

 このときはまだ就任していなかったが、2019年に迷い猫が「猫城主さんじゅーろー」として迎えられ、現在も城主として城を守っているという。その城主に会いに、もう一度訪れてみたい城である。

 備中松山城の見学を終え、駐車場まで戻ると時間は午後3時を過ぎていた。この日の最終目的地、津山城までの距離はおよそ60キロ、入場時間に間に合うかどうかの瀬戸際になっていた。ここで中国自動車道を使っていれば違ったのかもしれないが、やや遠回りになることや高速料金がかかることもあり、ぎりぎり間に合うだろうと下道を走ることにした。それが、間違いだった。

 津山城跡のある鶴山公園に着いたのが、午後4時36分。開園時間の午後5時までになんとか間に合ったと思ったのも束の間、券売所で「入場は4時半までなんです」と言われてしまう。スタンプの設置場所は、公園内にある備中櫓で、入場しないことにはスタンプは押せないのだ。ここにきて、最初の岡山城、道に迷った鬼ノ城、シャトルバス乗り場が長蛇の列だった備中松山城、それぞれで費やした時間のロスが、響いてしまったのだ。

この日の最終目的地、津山城に着いたころにはもう人影はなく‥‥

 がっくりと肩を落としつつ、受付の方に「日本100名城スタンプを押しに来たのですが‥‥」と言うと、まもなく閉門になるので、設置場所からスタンプが券売所に戻ってくるという。ご厚意で、戻ってきたスタンプを押印させてもらうことができ、なんとか、岡山県の100名城を全部回るというこの日の目標を達成することができたのだった。

券売所の方が「少し下がると櫓が見えますよ」と教えてくださり、パシャリ。
せっかくだからと、パンフレットも手渡してくれた。

 こうして、「日本100名城」スタンプラリーを始めてから初の、スタンプラリーだけを目的にした旅は幕を閉じた。ここで学んだ教訓があった。まず、休日の城周辺は混雑する。登城を始める前のアプローチで時間を無駄に費やしてしまうことは、避けなければならない。山城は、登城するのに時間がかかる。それを見込んで計画を立てなければならない。そして何より、都道府県単位で100名城を回るというのは、決して賢い方法ではない、ということだった。なぜなら、この先経験から気づいていくように、城は敵の進軍を阻止するため、街道筋に並んでいるからだ。
 しかし最大の学びは、これである。城めぐりのスタンプラリーとはいえ、ラリーなのだ。それぞれの城に、スタンプ設置場所に入場可能な時間に辿り着かなければならない。

 この旅が、実質的に本格的な「日本100名城スタンプラリー」参戦への試金石となったのであった。

【4城目】70番 岡山城(岡山県岡山市) 
【5城目】69番 鬼ノ城(岡山県総社市) 
【6城目】68番 備中松山城(岡山県高梁市) 
【7城目】67番 津山城(岡山県岡山市)
  
 登城日:2016年10月10日(月・祝)

【旅のお会計】 
高速道路通行料  9,090円
ガソリン代    3,825円 
駐車料金      200円 
宿泊費       7,800円 
食事代     10,888円 
土産品等        602円 
入場料等      1,200円 
その他雑費    2,300円
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合計      35,905円

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映画・アニメをレビューしている、飛田カオルのnote
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