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#7 ようやく地元・滋賀県内の100名城の攻略に取り掛かろうと、訪れた城は日本屈指の山城だった
愛媛県今治市で最初の100名城スタンプを押印してからおよそ2か月。以後順調に10の城を攻略してきたが、遠出のしにくい冬場が近づいてきたということもあり、私たちは、ひとまず年内は地元・滋賀県内の城の攻略に的を絞る方針を固めた。しかし、近場とはいえ滋賀県内も北部は降雪の恐れがある。そこで、県内の4つの100名城のうち、もっとも北にある「小谷城」から、まず訪れることにした。ちょうど2週間前訪れた、福井県一乗谷城の城主・朝倉氏と小谷城主の浅井氏とはつながりも深い。
滋賀県内の100名城はほかに安土城、観音寺城、彦根城があるが、小谷城は山城で登城には時間がかかりそうだったため、今回はこの城のみに訪れることとした。
【2016年11月26日(土)】
自宅(滋賀県大津市) →小谷城(長浜市) →帰路
長浜市にある小谷城は、大津市からはちょうど琵琶湖の反対側にある。西から周るか、あるいは東から周るか、いずれにしても琵琶湖をぐるっと回っていかねばならない。手っ取り早くいくなら、名神高速道路から米原ジャンクションで北陸自動車道に入るのがおすすめである。翌年2017年の3月25日から、北陸自動車道の「小谷城スマートインターチェンジ」が供用開始され、アプローチも格段に良くなった。だがあいにくこの頃はまだ工事中である。しかも、この先々、遠方へ足を伸ばすことを考えると、少しでも高速料金などの交通費は安くおさえたい。そこで、琵琶湖の西、国道181号経由で長浜へ行くことにした。西周りの方が距離は3キロほど長くなるが、途中までは無料の高速道路ともいうべき湖西道路があり、早朝に家を出れば交通量も少ないことから、スムーズに到着することができるだろうと考えた。
ちなみに小谷城主・浅井長政の浅井は、地元民なら当然のごとく「あざい」と読むが、平成の大合併の実施前、小谷城のある旧湖北町は「東浅井郡」に属しており、このほか浅井町、西浅井町と、浅井の名を冠した自治体が2つもあった。戦国の世を遠くはなれても、それだけこの地域には戦国大名・浅井氏の統治の歴史が根付いていたということだろう。
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小谷城の駐車場に到着して最初の写真を撮影したのが、午前8時53分。大手門の正面に、きれいな三角錐の小谷山を望むことができる。向かって右側の尾根筋は階段のように段がついており、曲輪が築かれていることが見てとれた。標高は495メートル。案内図を見ると、その山頂にまで曲輪があるようだ。
なお、例年ゴールデンウィーク期間中と、紅葉シーズンの11月はじめから25日前後の土日祝日には、中腹の「番所跡」までシャトルバスが運行されるが、あいにく、このときはもう運行が終了していたため、徒歩での登城となった。
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山道を登りはじめて、最初に現れるのが「金吾丸」という曲輪の跡。1525年に六角氏が小谷城を攻めたとき、朝倉金吾教景(のちに出家して宗滴)が布陣したことから、この名があるという。ここまでは比較的まっすぐだった登山道が、この曲輪の前後からうねるように曲がり始める。そして現れる番所跡。シャトルバスで登れるのもここまでで、ここから先、長い上り坂が続くことになる。番所跡に立つ看板の城跡の絵図には、尾根筋にまるで段々畑のように築かれた曲輪が描かれており、先の長さに気が遠くなりそうだった。
もう一つ、気になるのはやはり「クマ出没注意」の看板である。よもや、とは思うが気を引き締めて先へ進んだ。
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番所跡からすこし登ると、「御茶屋跡」という曲輪跡が現われる。名前は優雅だが、まったくの軍事施設だったという。馬屋跡、馬洗池とつづき、いよいよ中枢部へ近づいてきたかというところに、首据石という不穏な響きの名をもつ石が現れる。さらに進むと、赤尾屋敷跡。織田信長に攻められた浅井長政は、ここで自刃したという。戦国の真っ只中、いくたびも裏切りと戦いの舞台になった城だけあり、曲輪ごとに語られるエピソードにも、重苦しい歴史がある。
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桜馬場と名付けられた曲輪までくると、視界が開ける。浅井長政とお市の方の3人の娘の運命を取り上げた、「ことを紹介する看板が立っている。撮影のために、俳優陣とロケ隊もここまで登ってきたのかと思うと感慨もひとしおである。
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費やさなければならなった。屈指の難攻不落な城だったのだろう。
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小谷城の石垣は、それに先立って築かれていることにも注目したい。
その先には、江もここで生まれたと伝わる「大広間跡」、そして「本丸跡」が現れる。11月も終わる頃だが、曲輪はまだ紅葉に彩られ、赤く染まった葉で地面が覆われるほどで大変美しかった。しかしここが不思議なところで、ふつう本丸は一番高い位置にあるものと思っていたが、実はまだ山の尾根の中間地点で、ここから上に、さらにいくつもの曲輪が連なっているのである。本丸と、その先にある中丸の間には大きく掘り下げられた「大堀切」があり、さらに上に向かって「中丸」、「京極丸」、「小丸」、そしてこの尾根の最上部に位置する「山王丸」へと続く。
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「京極丸」は、もともとこの地の守護であった京極氏の居所として用意した曲輪、さらにその上にある「小丸」は、小谷城落城の際長政の父久政が立て籠った曲輪との説明がある。大堀切から上の部分が、ある意味本当に戦時に固く守るべき最重要部だったのかもしれないと感じた。
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「山王丸」からは少し下になり、次の峰へと続く鞍部のようなところに、「六坊跡」がある。浅井氏の政務や寺務を担う寺院をまとめてここに集めたという。こんな高いところに?と思うような場所で、東側に見える伊吹山と山麓を見下ろしおながら、何がそこまで、浅井氏一族を上へ、上へと押し上げていったのだろうかと、ふと思った。
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ここから道は二手に分かれる。一方はここから少しのぼって山頂部にある「大嶽跡」へつづき、もう一方は「清水谷」を下ってゆく道である。大嶽跡に行ってみたい気持ちもあったが、そこまでいくと、もう一方の尾根をぐるりと回って下りてこなければならず、かなりの時間がかかることと、清水谷方面には屋敷跡などが点在していることから、ここは下りの道を選択することにした。
この下りの道は谷筋にあり、尾根筋の曲輪群とは違って日中も日のあまり差さない暗くじめじめした感じがした。雨が降れば、谷筋に沿って水が流れているのかもしれない。沢のようなごつごつした岩場もある急な坂道だが、そんなところにぽつぽつと、家臣の屋敷跡が現れて驚いた。これは後日知ったことだが、小谷城攻めの際、羽柴秀吉はこの清水谷から急峻な崖をかけのぼり、京極丸を落として父久政のいる小丸と、長政のいる本丸を分断したのだという。そのとき、あの日中も暗い谷とそそり立つ山肌を思い出し、織田軍の底力をひしひしと感じたのであった。
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下の道も次第にゆるやかになり、視界が開けて明るさが増してくると、広々した御屋敷跡へ出てくる。ここが、平時に浅井氏が暮らした居館跡だという。
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先に訪れた朝倉氏の本拠地、一乗谷城とも似ている
こうして、およそ2時間をかけて、全国でも屈指の巨大山城の半分をめぐったのであった。そして最後に、麓の「小谷城戦国歴史資料館」に立ち寄り、ここで12個目のスタンプを押印した。資料館ではボランティアガイドを務める地元の女性から話を聴くことができた。大河ドラマの放映に合わせて開催された「江・浅井三姉妹博覧会」には100万人を超える来場者があったこと、小谷城は落城したあと、しばらく羽柴秀吉が居住したものの、のちに琵琶湖畔の今浜を「長浜」と改名して城を築いた際破城の憂き目に遭ったことなどを教えてくれた。その破壊の跡が残された現状のままで保存するのが文化庁の方針であるため、登りやすく階段をつけたり石垣を修復するなど、手を加えることがいっさい許されていないという。
そうした滅亡の痕跡を見ることは、地元の人にとっては苦々しいことかもしれない。しかし、そうした苦い歴史を刻んだそのままの姿から、戦国の世の厳しさとはかなさを感じることができる、ということもまた、宝のような経験ではないだろうか。
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山を下ってきたとき、まだ午前11時の少し前だったので、もう一つ城を訪れるくらいの時間はあったが、体がくたくただったことと、この余韻を大切にしたい気持ちもあり、この日はそのまま帰路につくことにした。
【12城目】49番 小谷城(滋賀県長浜市)
登城日:2016年11月26日(土)
近隣のおすすめスポット「下坂氏館跡」
さて、ここからは後日談である。もし、これから小谷城に行ってみよう、という方がいたら、ぜひついでに立ち寄ることをおすすめする史跡がある。それが「下坂氏館跡」である。
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室町時代の地頭、戦国時代には浅井長政家臣だった。
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下坂氏館跡は、小谷城主だった戦国大名・浅井氏の家臣、下坂氏の館跡で、2006年1月に国指定史跡となっている。それに先立って実施された調査で、南北朝時代から下坂氏が地侍・村落領主としてこの館を使用していたことが確認された(下坂氏館跡・パンフレットより抜粋)。
史跡となった当時もここには下坂氏の子孫が居住されていたというが、2019年に史跡部分の敷地・建物が長浜市に寄贈され、2020年8月から土日と祝日のみ、一般公開が行われている。戦国期の平地城館の遺構が現存しているのは非常に珍しいということで、私たちは2023年7月15日に、たまたま長浜に出かけたついでに、ふと思い立って立ち寄った。
入館料を払って屋敷内に入ると、「下坂氏館跡を守る会」の方が詳しく説明しながら案内してくれた。下坂氏は鎌倉時代からつづく領主で、足利直義(尊氏の弟)感状が伝わることから南北朝時代には武将として活動していたことが窺われる。その後浅井氏時代、小谷城落城後に武士をやめて帰農し、江戸時代は武士と百姓の間の郷士として地域を治めていた。
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福井県でとれる笏谷石でできており、朝倉氏の統治した越前との交流が伺える
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伝説によれば、後鳥羽上皇が承久の乱の挙兵前にこの地を訪れ、この館でお休みになったという。史実とは違うかもしれないが、地元の人たちが大切にしているお話だそうである。城館周囲は高さ2mほどの土塁に囲まれ虎口、堀もある本格的な平地城館。周囲は住宅地だが、そうとは思えない雰囲気だった。
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600年以上の長きにわたって、侍とその子孫が守り続けてきた館で、戦時ではなく平素の武士の暮らしぶりを感じてみることで、さらにこの時代への理解が深まるのではないだろうか。
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