見出し画像

鬱病文学が書けない

隙自語乙なのですが、私は鬱病かつ物を書くことが好きです。
なので鬱病文学とやらをしてあわよくば気の合う方々と傷の舐め合いをしたいと思いながらも、本当に何も書いていません。
そもそもお恥ずかしながらキルケゴールもRadioheadもハヌマーンもsyrup16gも惡の華もブルトンもバタイユも触れたことがありませんし、萩原朔太郎もドストエフスキーも澁澤龍彦も好きかと訊かれると……そこまでの熱意はないな、といった具合です。
では何に感動しているかというと、太宰治、宮沢賢治、ヨルシカ、ぺぽよ、神聖かまってちゃん、その辺りです。
これは鬱病文学界隈の好みとは少しだけ外れたところにある感性だと思います。
これらを好む人が集まる場所は、恐らく病み垢や闘病垢と呼ばれるところであって、そこにいることが許されるのは18歳未満の儚げな少女か、他者への攻撃性が低く優しい心を持ち、真面目過ぎるが故に精神を病んでしまった人か、そのどちらかであり私はどちらにも当てはまらないため、立ち入ろうとすると電流が流れて近寄れません。
かといって鬱病文学ができるほど冷笑や達観もできず、自身の趣味を高尚なものとすることで何とか矜恃を保っている訳でもありません。
自分の書く文は、短歌にしろツイートにしろ、いつも被害者面をしながら他責的で攻撃的です。
本当は冷笑をしたいのかもしれません。
社会のレールから脱線せずに生きてきた「普通の人たち」を「苦しみを知らない幸せ者」と揶揄して、自分より重い罪を背負って生きている人たちに「身の程を弁えろ」と嘲って、自分と同じような立場の人には「自己投影だから」、「同族嫌悪だから」と理由を付けて軽口を叩いて、そうやって、人を叩いて安心を得たいのかもしれません。
ですがそれが衝動的なものであって、自身の苦しみを癒すことは絶対にないことも理解しています。
誰かに冷笑されると、「かわいそうだな」と思います。なりたい自分になれない事実を受け入れられず、他者を見下すことで誤魔化すことしかできないのだなと、かわいそうにと思います。
私は同情されることが苦手です。
きっとすぐ「今私はかわいそうな奴だと思われているぞ」と内側から声がして苦しくなってしまうと思います。
そもそも、当たり前のことですが、悪口は言わない方が良いです。
性格が悪くて許されるのは、才能かカリスマ性のある人や、身体が細長くてある程度顔が良くて煙草か酒かギャンブルに依存していて、セックスがエモくて汚い街に住んでいることを誇りに思う前髪の長い人間だけです。(これは冷笑ではなく妬みです)
それ以外の人が性格の悪いことを言ったら、嫌な奴になって終わりです。
なのでせめて優しい人間であろうと取り繕った結果が、被害者面です。
被害者面と加害意識がセットになっているせいで、言ってることがずっと矛盾しているのです。
私が鬱病文学界隈にも病み垢界隈にも属せないのは、こういった臆病故の保身のせいだと思います。
社会に包丁を向けて生きていくか、同じ痛みを抱えた人と支え合って生きていくか、そろそろ決めなければいけません。
私は保身をやめられるんでしょうか、冷笑を安心の道具にすることをやめられるんでしょうか。
誰でも構いません、どうか見ていてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?