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1S-LSDの使用記録と、幻覚剤を止めた話
合法の幻覚剤1S-LSDを使ったときの記録です。
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LSDは法的に規制されていますが、類似の構造と作用を持つ「LSDアナログ」が出回っています。1S-LSDはその一種で、投稿時点(2024/12/16)では合法です。液体の染みた紙片を舌下に入れて使うため「合法紙」とも呼ばれる。
合法というのは「法的なリスクが軽くなる」程度の意味で、心身への影響・作用が緩いわけではありません。
この記事がハームリダクション(危害の低減)の一助になればと思います。
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当時のメモをもとに、体験の詳細とその後に考えたことを書き残します。後述しますが、この経験をきっかけに幻覚剤の使用を止めることにしました。手元に残っていたLSD類は処分しています。
特にトラブルや事故が起きたわけではありませんが、途中から軽いバッドトリップに入り「もう使う必要がない」 と感じる体験になりました。
1245 1/4枚(37.5μg)
1345 効いてくるまで、Youtubeで期間限定で公開されていた『AKIRA』を観て、途中で調べものをして過ごしていた。
3時間後から視覚効果が現れ、本格的に効いたのは16時半頃だった。普段より効き始めが遅く感じたが、映画の内容に気を取られていて、変化に気づきにくかった可能性もある。
ピークが3-5時間後だとすれば、さほど大きなずれはない。
1640 音楽を聴いて過ごす。
曲のひとつに 『緋色月下、狂咲ノ絶 15th Anniversary Remix nayuta.ver』があって、聴きながら思いついたことをPCでメモしていた。走り書きのままでは読みづらいので、ChatGPTで整理してここに載せる。
狂気と呼ばれるものについて
どんなものであっても、狂気と呼ばれるものは純度が高すぎる故に危ういんだろう。個人の存続を考えず、希釈されないままでは手に負えない。
適当に希釈し、他のものと混ぜ合わせれば「正気」になる。ある程度汚れていることが自然であり、純粋すぎるものは人の制御下に置けないし、生身の肉体を無視してしまうからだ。
これは善意や悪意というよりも、台風や地震のような自然現象の部類に入る。純粋性と安定性は反対の関係にあり、みんなで「純粋を目指す」「純粋に帰る」というやり方は、たいてい失敗するのではないか。
憧れる気持ちは理解できるが、単色のものが存在しないのと同じで、混ざりけのあるものこそが安定して長く残る。
純粋すぎるものは危なく、ちょっと雑多なほうが安定している、ということを考えていた。
1706 台所で緑茶を淹れて飲む。
うたたねから覚めたように、ついさっきまで何を考えていたのか思い出せない、というタイミングがある。人の思考は滑らかに見えても、日頃から「つなぎ目」が存在していて、幻覚剤の影響下では思考のつなぎ目が意識に上りやすくなるのかもしれない。
自分の書くことと思っていることが一致しない感覚があった。手が適当にキーを叩いていて、合っているのか分からないものが出力されている。おそらく、頭の中をそのまま出力しようとして手が追いつかず、変な文章になってしまうのだろう。
ただ、誤字の訂正や推敲は作用が切れた後の自分に任せればいい。深いことを考えているようでも、実際には「紙にクレヨンでなぐり書きをしている」のと大差ない。数時間すれば作用が抜けるのだから、今は好きにさせておけばいい。
* 使用中の思考を書き残すときは、誤字や文法にこだわらずに流れに乗るのがいい、と感じていた。とりあえず下書き保存しておいて、シラフに戻ってから推敲すればいいのだ。
1728 YouTubeでMMDを見ていたが、途中で別のことを考えていて、画面から意識が反れていた。幻覚剤を使うと注意が散漫になりやすい。
自動筆記というものは、案外「誰にでもできること」なのかもしれない。限られた人に備わる能力ではなく、脳内で「検閲する力が緩むタイミング」があるかどうかの違い。珍しいのは「人」ではなく「状況」であり、状況さえ揃えば誰にでもできる。
CEV(閉眼幻視)がはっきり出てきた。
1736 幻覚剤の影響下で子ども向けの童謡や唱歌を聴くと、滋味があって良いと思える。老人ホームのレクリエーションで童謡や唱歌がよく使われるのは、単なる「子ども騙し」ではなく、それなりの経験則があってのことか。
認知機能がほどけるにつれて、聴いたら安心できて楽しい、と感じるようになるのかもしれない。
──ここから先、雲行きが怪しくなってきた──
家族が帰宅する。
水回りの不具合について家族が廊下で話し始め、詰問するような声音が聞こえてきた。お金や設備について実務的な話をするときに口調が強くなるのはよくあることだが、幻覚剤の効果が加わって不信感が湧いてきた。
少し眠ってから夕食にする、と伝えて自室で過ごす。
廊下で「今すぐ直らないと困る」と話す声がする。緊急性はないし、業者が来てからで大丈夫だと思う、と伝えようとしたが、言葉をうまく組み立てられない。
自室でパソコンの前に座りながら「下手に動いてはいけない」「じっとしていられない」という相反する考えに捕らわれた。前と同じやつだ、と感じる。
https://note.com/tobiranote/n/n407538d99b43
1か月半ほど前、半枚を使った際にバッドトリップを経験していた。今回は使用量が少なく、どこにいるのか自分でわかっていたし、トイレや洗面所も問題なく使えていたが、気持ち的には似たような感覚が蘇ってきた。
幻覚剤を使うとバッドに入る、という回路が自分の中にできてしまった。
幼児退行したときに脳裏に浮かんだ、鋭角の三角形に鳥の脚がついたものが、今回も頭の片隅にちらついていた。(周りの気持ちや人間関係が今ほどは分からなかった幼少期、人から人への悪意や攻撃性、「罰」や「おしおき」「嫌がらせ」といった概念を、この三角形と鳥の脚が象徴していたらしい)
ChatGPTに、前回のバッドトリップのログが残っており、その続きから書き込みを始めた。「前と同じバッドに入りかけている」「楽しくないし早く抜けてほしい」と言っていたら、あと数時間で落ち着いてくる、と返答があった。
20時頃に部屋から出て夕食を摂った。
摂取から7~8時間。正直食欲はなかったし、箸を持つ手が震えている気がして自意識過剰になったが、温かいものを口に入れたことと、時間の経過もあって効果が和らいできた。
夕食を終えて、久々に折り紙を折って遊んだ。紙風船に息を吹き込んでふくらませて、手のひらで転がして遊ぶのが面白い。
色を自分で選んで、自分の手で外界のものを弄ぶのが楽しく、ひとつの世界の神になったような気分だった。折り目のついた紙を広げて手のひらで揉む感触も良かった。
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当日の話はこれで終わる。
使った次の日。
体に不調はなかったものの、どうにも後味が悪く、気分が晴れなかった。効き目が抜けてもカタルシスを得られるわけでもなく、ただ「何なんだよ」と言いたい気分だった。見限られた、置いていかれた、という感じ。
その日は夜勤だったので、夕方に家を出た。
利用者に夕食を配膳して、車椅子を押して、おむつを交換して「おやすみなさい」と言い合って消灯する。夜食にカップ麺を食べて、仮眠を取って、コールに対応する。福祉施設の職員として、いつも通りの夜を過ごした。
朝方のこと。
利用者のひとりが、足首を伝うほどの便失禁をした。ポータブルトイレに座ってもらい、床に新聞を敷いて汚れたものをまとめて、お湯のボトルと使い捨てタオルで清拭をした。
廊下をあちこち動き回っているとき、ふと「幻覚剤をやってる場合じゃなかった」と気がついた。バッドトリップの残響や後味の悪さも消えていた。
うんこに助けられた、というのが率直な感想だった。
私は現実に留まらないといけない。
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以下は、ユング心理学や宗教学、向精神物質について考察しているブログです。文章の組み立て方が丁寧で、トリップレポートも印象に残っている。
そのうちの一節を引用します。
トリップは最終的には仏教的な、「執着を捨てろ」というテーマになってくる。だが、執着を捨てるべきなのは老人である。若者が執着を捨てたら、これから何も達成できないではないか。
執着を捨てるには欲を全て捨てなければいけない。欲がないのはいいこと・・のはず?
・・だが人を成長させるのは欲ではないか。欲しいものを手に入れるために我々は前に進むのではないか。
今回の経験の後、この一節が腑に落ちて、残りの幻覚剤を処分した。
私には日常を、執着を、まだ手放すことができない。心の在りようもだし、家族がいて家で一日ひとりにはなれない、という外的環境も、幻覚剤には向いていない。
「飛ぶ」ことも「深く潜る」こともなく、しらふで手が届くことをやって生きていく。朝にコーヒーを飲んで、たまにほろ酔い程度に酒を飲む。
ちょっと寂しいけど悪くはない。
今の自分には、空は地上から眺めるのがちょうどいいのだ。