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年明けに思う「夜明けのすべて」のこと

大掃除をしたとて、劇的に家が綺麗になったという感じはないけれど、私の中にあった、ある種の後ろめたさみたいなものが払拭されていくようで、その正しさに胸を張りたくなった年末。掃除を一段落させて観た「夜明けのすべて」がやっぱりよくて、なんともいえない安心感が年末らしい。

いったい私は周りにどういう人間だと思われたいのだろうか。
まじめで誠実。それはどこか違うし、明朗快活というのでもない。気が利いて優しいのはいいとは思うけれど、そればかりでもない。仕事ができると評価されたいわけでも、地位や名誉がほしいわけでもない。何も欲していないはずなのに、どうふるまうのがいいのかいちいち悩んでしまう。

『夜明けのすべて』瀬尾まいこ著(文藝春秋)

最近は、自己中な人間で上等、と思うようになった。
他人が定義する、期待する「自分」に従うでもなく、心は「我思うゆえに我あり」。

限りなくグレーで定義しきれない自分に対して、人は「名付けたがる」し、だけど、そのものずばりが私ではなく、かといって「こう」と言えるほど強いカラーを持っているわけでもなし。今日感じたことを明日の私が否定して、そう思ったりそう思わなかったり。何一つ確かな自分などいない。だけど、物事を捉えようと、何かを感じようとする、確かな存在として自分はいる。

少し違う角度から言えば、みうらじゅんがVOW(だっけ?)でつっこんでた(駐車場の看板の)「空あり」みたいなもので、「そもそもないのにあるって何?」、いやそれこそ仏教の真髄、色即是空だ、みたいな感覚があって(みうらじゅんのくだりはむかしの記憶なので確かではないかも)、自分とは定義できるほど実体のあるものでもない、本質は「空」であると。

確かな自分が存在していると言ったり、空っぽであると言ったり、ちぐはぐなのだけど、「どうあるべきか」という姿勢で自分だけに集中するのはすごくもったいない気がしている。その時の自分に起こること、感じること、行動は現象のようなものでしかなく、ほかに集中するできる物事を見つけられたら、わりと人生はもう少し楽だったかなと振り返ったり。好かれなきゃ、よりももっと大切な、光る何か、とか、信じられる誰かとか。

映画「夜明けのすべて」には原作本になり台詞があるのだけど、その中の「夜明け前が一番暗い」という言葉がじんと響いた。「夜がやってくるから、私たちは闇の向こうの、とてつもない広がりを想像することができる」、「喜びに満ちた日も、
悲しみに沈んだ日も、地球が動き続ける限り必ず終わる。そして、新しい夜明けがやってくる」と。

自分がこれまで味わった苦しみから簡単に解放などされないな、と思う。ただ日々を営み、生きていくことしか道がないのなら、もっと身勝手に楽しみながら暮らし、自分という現象を面白がり、他者との関係をやさしく無視できたら、いいなと思う、年明けなのでした。







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