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「愛」の存在が分かった衝撃。私が感情の無い世界から抜け出した話

私の人生を大きく変えた出来事について書きたいと思います。

その日、【愛】とは何か分かりました。




モノクロの世界

【感情】というものを、色にたとえてみます。

周りの人たち、生き物たち…それらの感情は豊かで、世界は色とりどりです。

しかし、それらの色をすべてモノクロにしてしまうものがあるとして、それを『モノクロレンズ』と表現してみます。

モノクロレンズをかけると、どんな色も、黒か、白か、グレーに見えます。たとえば【愛】を赤色だとすると、モノクロレンズを通してみたら、【黒】です。

「大好き」をピンク、「楽しい」を黄色、「かなしい」を水色だとすると、モノクロレンズを通すとそれらは全部グレーで、違いがあまり分かりません。

あたたかい愛の色も、黒く見えてしまう、かなしい世界。
私はそんな世界に生きていました。



大切な人を大切にできなかった

もちろん、「愛」という言葉は知っていました。小学校で習います。I love youは中学校で学びます。
「モノクロレンズ」をかけていた私は、相手の“気持ち“を受け取ることも、“優しさ”を与えることもできていませんでした。

たとえば小さなことですが、子供の頃に次のような経験があります。

よく「相手の気持ちになって」と言われました。でも、それを言われてもいつも「どうしたらいいんだろう」と思っていました。
姉が「誰でもこれは付くでしょ」と言った、通知表の「思いやり」欄。私は〇が付かなかったので、次の学期から「優しくする」ことを頑張りました。が、◯は付かず。今でも覚えているので、子供の私はがっかりし戸惑っていたんだと思います。

愛が分からないと当然、家族や、恋愛関係にある人など、関係が深くなればなるほどズレがたくさん生じていきます。最終的に、関係が破綻してしまったこともありました。

あるとき、交際していた人に「もっとぱっとした色の服が似合うと思うよ」と言われました。「私がもっと素敵になれるようにアドバイスをしてくれたんだ」と、プラスな言葉として受け止めることができる言葉だと思います。さらに言えば、根っこにある【愛】に気づけるでしょう。
しかし私は、マイナスの言葉として受け止めました。「今日の服がダメってことなんだ。今日はもうこの服着てきてしまったのに、どうしよう。今すぐ買いに行かなきゃならないの…?」。私はパニックになり号泣。相手は「???」だったと思います。

この出来事は、相手の【愛】が分からないゆえのトラブル例(【赤】が【黒】に見えてしまった例)だと思っています。

大切にしている人との関係が、なぜか悪い方へいく。
とにかく相手の【黒】がこわかった。




自分も愛せなかった

私は同時に、自分の気持ちを自覚することが苦手でした。

自分の感情は、「うれしい」と「楽しい」くらいだと思っていました。高校からの友人からは「いつも楽しそうだった」と教えてもらいました。今思えば、ずっと楽しかったのではなく、「楽しい」しか認識していないから、それしか感情が出ていなかったんだと思います。

学生時代には過食嘔吐(自分を傷つける行為の一種だと思っています)をするようになり、社会人になったら鬱を発症しました。
まず一番大事にしなくちゃいけない自分を、気遣えていませんでした。言い換えると、自分に愛情を注げていませんでした。


モノクロレンズをかけていると、人間関係も、自分自身も死に向かっていくのですね。
そんなモノクロの世界をかなしいとすら、わからないままに。





世界に色が付いた。まさにそんなことが起こった

しかし、そんな私に【愛】が分かる瞬間が訪れました。
その出来事を『ヘレン・ケラー体験』と呼んでいるのですが、【愛】が分かったときの衝撃がまさに、ヘレン・ケラーの伝記の1シーンと同じ感覚だったからです。

その1シーンとは、目も見えず耳も聞こえないヘレン・ケラーが、井戸の前でコップを持って、そのコップに水を注がれて、
水があふれると同時に、手のひらに先生の指でなぞられた「water」という文字の並びが「水」だということに気づいた場面です。

彼女にとって、水を「文字」と「言葉」認識しただけでなく、【コミュニケーションの存在】を知った衝撃の瞬間。

私が小学校のときに読んだ図書館のマンガでは、彼女がカミナリに打たれた絵で書かれていましたが、本によって表現は違うかもしれません。

今まで何度も何度も手になぞられてきたw、a、t、e、r、のそれぞれの”形”は分かる。

水も知っていた。

だけど、waterが水を示すことは知らなかった。
そして、waterが誰かとやりとりできる手段だなんて知らなかった。

でもあの瞬間、文字を並べれば「存在」を認識することもできるし、誰かとコミュニケーションすることもできると知った。

自覚していなかった世界が、一気に開けた瞬間。

彼女にとっては、見えも聞こえもしない。だけど、それまでずっと肌に触れて、心が揺れて、体と心は感じていたこと。でもそれが何なのか、気づきもできなかったこと。
それを、自分で認識できるようになった。

【無】から、圧倒的【有】に変わったのです。

“私はその時、 w-a-t-e-r という綴りが、私の手の上を流れている、この素晴しい、冷たい物を意味していることを知ったのです。この生き生きとした単語が、私の魂を目覚めさせ、光と希望と喜びを与え、(暗黒の世界から)解き放ったのです。“

引用:ヘレン・ケラーとサリヴァンの奇跡とは何か? – NAVER まとめ


「解き放つ」という表現が、ほんと、これだ!って感じです…!

私の『ヘレン・ケラー体験』は、ほんとに、立ちすくむほど、床にひれ伏すほどでした。まさに、ヘレン・ケラーと同じ感じに、カミナリに打たれたかのように体中にしびれを感じました。


モノクロレンズを外して見た世界は、ほんとうに鮮やかだった


分からないのは、「自覚していない」だけ

ヘレン・ケラーは目も見えないし耳も聞こえませんでしたから、言葉を自然に話せるようにはなりません。しかし彼女は、晩年の姿のように、言葉を使って周りと“ふつうに”コミュニケーションを取れるようになりました。

つまり、【言葉】が彼女に存在しなかったわけではないのです。視覚情報とか音の情報が無いために、【言葉というものの存在を認識できなかった】。

大学のときの何かの講義で、「赤ちゃんは何語でも話せるようになる」というのを聞きました。例えば日本人の間に生まれた赤ちゃんも、英語を話せるようになります。つまり人間の脳には、”言葉によるコミュニケーション”というスペックが生まれつき備わっているのです。

同じ感じで、私に、【愛】が無いわけではなかったのだと思います。

愛は自分の中に存在していたけれど、「愛」が言葉で認識できなかったから、愛がどんなものなのか分からなかった

だから、どんなに「愛」に出会っても、気づくことができなかったし、愛を受け取ることも、伝えることもできなかったのだと思います。




モノクロレンズを外せたきっかけ

『ヘレン・ケラー体験』が起きた時期は、鬱になり東京での仕事を辞めて、北海道の端の牧場で働きながら、「生まれるところから自分をやり直そう」と思っていた頃でした。

◆なぜ?なぜ?なぜ?を繰り返した

日々生活している中で、「?」を感じる瞬間は何度も起こりますが、たとえば次のようなことを思ったときがありました。

  • どうしてあの人はこの言動をしたのか?

  • なぜ私が贈ったプレゼントが喜んでもらえないのか?

  • なぜ親から荷物が届くと嬉しくないのか?

  • なぜ私は過食嘔吐をしているのか?

こういったモヤモヤをそれまでの人生ではスルーしがちだった(気づかず素通りしていた)のですが、「?」をわざわざ探して見つけて、それを”ふつうの人”に解説してもらう、ということを続けました。
ケーススタディというのでしょうか。こんなめんどくさい作業に協力してくれていた友人には感謝しかありません。

具体的な例を挙げると、当時長くお付き合いをしていた人(遠距離)から、数ヶ月返信がありませんでした。自分では、大丈夫だと思っていました。忙しいだけだ、とか、きっと私を見守ってくれているんだ、と。

友人と話すうちにやっと私は、連絡が返ってこない理由がやっと分かりました。パートナーの関係を維持するほどの【愛】がなくなっていたからでした。
同時に、彼が私に対して向けてくれていた【愛】にもやっと気づきました。そしてそれに自分が「ありがとう」の愛を返していなかったことも。私が愛を伝えていると思っていた行為が、ズレていたことも。

答え合わせが行われるように、別れを告げられました。その際、最後にお礼を伝えられただけでも、気づけて良かったな、と思っています。

上の話に関連させると、一方現在の夫はとても“愛の言葉”を注いでくれる人で、モノクロレンズの感覚がまだ残っていた私は戸惑いました。「これはただのリップサービスなのではないか」「義務感で言っているだけではないか」と。
でも、【愛】の存在を信じて夫の言動を観察してみるようにしたら、それがちゃんと【愛】だと認識できるようになっていったように思います。(まぁいくらかはリップサービスもあったのではないかと思いますが…自分の嬉しい気持ちも大切にすることもまた、愛。)

最近はLINEするときなどに、好意を伝えたいときは自分からも意識してハートマークをつけるようにして、【愛】を使いこなすための一助として試みています。
息子にも、「大好き」をハグと一緒に言っています。伝わると良いなぁ。


息子が私に描いてくれた絵。この絵を貰う前に愛の存在を認識できるようになれていて本当によかった。4歳の息子は愛のことを「気持ち」と言っています。





【愛】が分かるようになる具体的な方法

「愛」が欠落している、と誤解されている人がいます。冷たい人だとか、サイコパスだとか呼ばれて。

しかし、【愛】が認識できていないことは、コミュニケーションの障害になることは確実です。生きづらくて、社会的にも肉体的にも苦しい方へ向かっていってしまうこともあるでしょう。

そこで、先述のものにはなりますが、日々の「?」を解説するという、ケーススタディの方法はとてもおすすめです。
ひとりでもできますが、誰か“普通”の人の協力を得られれば、ぐんと効率が良いです。“普通”の人とは、愛が分かる人…周りとの人間関係が良好で、自分をほどよく大切にしているバランスの良い人だと思います。専門の人にカウンセリングを受けるのも良いかもしれません。

誰かに解説をお願いするときにぜひ活用して欲しいフレーズがあります。

◎「今、考え方の偏りを直したいと思っていて、、、〇〇ってどう思う?」
「力を借りたいことがあって、〇〇ということがあったんだけど解説してほしい」
「あなたならこんなときどうする?」

ちなみに、指摘されて怒るのは【図星】ということらしいです。確かに、と実感しています。
私の別れ話の例では、数か月返事が返って来ていない状況について友人が「それって付き合ってなくない?」と言ったことにイラだった自分がいました。怒りが湧いたのですね。つまり、「彼からの愛は冷めている」ということを、私の無意識のところでは分かっていたのです。

自分の考え方を壊す作業は痛みを伴いますが、言われてイラっとしたことこそ、受け入れましょう。「教えてくれてありがとう」を伝えましょう。


ASDとの関係

【愛】は、ASD(自閉スペクトラム/アスペルガー/発達障害)の人に欠けがちな、「何か」のうちの一つかもしれません。
私は、自分はASDグレーゾーンだと思っています。

ASDな私ですら、ASDの人と接しているときに違和感を感じることがあります。ASDの人が一生懸命に「コミュニケーションスキル」を練習して小手先のツールを身に着けたとしても、その場しのぎで終わり生きづらさが根本的に解決しないのも、モノクロレンズが関わっているのではないかと私は思っています。

ASDの典型的な特徴の中で、次のようなことはモノクロレンズと関連がありそうです。

・「~すべき」で考えがちなところ
・物事を白か黒かで極端に捉える(白黒思考)
・自分目線

ASD以外にも、モノクロレンズをかけて育ってしまう人にはアダルトチルドレンな人もいるかもしれませんね。

モノクロレンズ当事者じゃない人で、【愛がない人】に悩まされているときには、こういう特性が【愛】の表現を難しくさせているんだと思ってみるのも良いかもしれません。





最後に

愛…というとそれは毎日のように耳にするし、一般的にありふれたものなのかもしれません。
でも私にはたとえば「愛の力」とか、贈り物をもらったときの「気持ちだから」とか、本当に何なのか分かりませんでした。

なんでみんなは子供の頃から【愛】が自然と分かるようになるのか?
うらやましい限りです。モノクロレンズを生まれつきかけてしまっている人間は、苦労するのが宿命のように思えてきます。

私の個人的な思想ですが、ヘレン・ケラー体験をした26歳のときが2回目の人生の始まりで、そのときが精神年齢が0歳。愛というものを使いこなせるようになるまでには、それまでに生きていた時間(私の場合約半世紀)くらいかかったとしても仕方ないと思っています。10年、20年生きて、それなりになれば良いのではないでしょうか。

この記事は、愛の存在にまだ気づけていない人が何か気づけたり、その周りの人の誤解が少しでも解けて、世界の温度がちょっぴりでもあたたかく優しくなったらいいな…なんて思って書きました。

それでは、この記事を終えたいと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。


愛を込めて。


初稿2019年12月21日


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