誰にも読まれない私の自己紹介
仕事柄初対面の方と接することが多く、自己紹介で「文章を読んだり書いたりすることが好き」と言う機会がよくある。
「中高時代は新聞部、大学は出版サークルで学生向け雑誌作り。アルバイト先は出版社で、ライターのインターンをしていました」と事実を言えば「そうか、この人は本当に文章を書くのが好きなのね」と納得してもらえる。
でもたまに自問自答する。本当にそうなのか?
今の私の仕事は人事。タクシー会社の新卒採用部署だ。2018卒で入社し、最初の2年半は乗務員。その後、異動して今の部署にいる。学生と面談や面接をする傍ら、新卒採用の公式noteの運営をしている。こうやって個人アカウントでもnoteを書いているわけだから、少なくとも書くことは嫌いではないはずだ。
でも普段息を吸うように文章を書いているわけではないし、日記のような完全に私的な文章を除けば、どちらかというと重い腰を上げてぜえぜえ言いながら書いているという表現が正しい。それを好きかと問われるとよくわからない。趣味が読書とはいうものの、たぶん私生活ではYouTubeを見ている時間の方が多いと思う。
なのになぜか、文章を書くということは、自分のアイデンティティとは切っても切り離せないものになっている。このことが、本来は2017年新卒で就職するはずだった私の、仕事探しの方向性を誤らせた要因になった。
大学3年生だった当時、私が行きたかったのは出版・マスコミ系。ただでさえ倍率の高い業界を、向う見ずにも1本に絞っていたものだから見事に玉砕、就活浪人をすることになった。当時のことについては以前書いたnoteに詳しいので、ご興味のある方は読んでいただきたい。
簡単に言うと、「自分が好きなこと」と「会社が求めること」を一切区別せずに選考に突っ込んでいたことが敗因だ。これは私の浅薄さゆえに社会人になってからわかったのだが「文章を書くのが好きな人」を、出版社や新聞社は別に求めていないのである(求めているところもあるのかもしれないが、私は巡り合わなかった)。
たとえば、一言で乱暴に表現していいなら、新聞は媒介だ。この社会には知らしむべきことがあり、時に拡声器として、時にそれを問題提起する役割として情報を媒介する。そして、出版はプロデュースだ。こういう作家さんにこういう作品を書いてもらいたいとか、こういうメディアを作ってこういう情報を発信したいとか、企画を現実に作り上げる仕事だ。
どうもそれらに私は向いてない、いやもっと正確に言うなら、さほど興味がないらしいのだ。そしてそれを認めることは本当に難しかった。
なぜ難しかったか。冒頭でも述べた通り、私の大学までの経歴を一言で言うなら「文章を書くこと」一本だった。それは裏を返せば、私からその要素を除いたら何の特徴も取り柄もスキルもないということだ。留学経験もなければ、資格らしい資格もない。大学の勉強だってギリギリ単位を取る程度にしかしていない。履歴書の空欄の自己PR欄が「君は20余年の人生を通して、何も積み重ねてこなかったんだな」と嘲笑っていた。
「何の特徴も取り柄もスキルもない就活生」として、就活市場を勝ち抜く術を私は知らなかったし、就活市場という価値判断をされる場において自分がそういう人間であると認めるのは、今までの人生を否定するような恐ろしいことだったのだ。
それでも本当は興味のないことをあるふりをして自分を偽りながら就活をする矛盾には限界が来ていた。では、自分は何に興味があるのか。それを考えた時、私は伝えたいんだな、と思った。それもいわゆる社会問題などとは程遠い、限りなくパーソナルなことを。
伝えたいって、何を?
そう思ったとき、思い出す原風景がある。それは小学校だ。その教室にはいじめがあって、明日のターゲットは自分かもしれない。誰の顔を見ても、陰で私の悪口を言っているように聞こえる。女子が数人、教室の隅で話し合っているのを見るだけで戦慄する。現実から逃げるために、教室の窓から外に飛び出ようかなと何度も思った。痛いの嫌だからしなかったけど。
別に自分がいじめられていたわけでもないのにその程度のことで、と思えるのは、単に大人になったからだ。あの時、私が私でいられたのは休み時間にめちゃくちゃに面白い本を読んでいる間だけだった。
ジャンルは色々、内容も千差万別。でも語りかけてきたことはどれも一緒だった。「ここに君の居場所がある」
そうだ。これが私の伝えたいことだ。
媒介(メディア)であるより、プロデューサーでいるより、プレイヤー(伝える人)でありたい。私自身が私自身の言葉で伝えたい。そういう自分をようやっと受け入れたとき、目の前にあるのはもうマスコミ・出版業界ではなかった。
その瞬間、そこにいたのは「少しばかり文章を書くのが好きなだけの、何の取り柄もない大学生」。書くのは趣味でもできるし、とりあえず就活では“こういう自分”を受け入れてくれる物好きな会社に入ろう……。それは大変受動的な態度の就活であり、残念ながら(よく学生さんから質問いただく立場にもかかわらず)人に対して就活について講釈を垂れることはできない。
ただ、今の会社は“こういう私”に内定をくれた唯一の会社で、部署公式のnoteを任せてもらっているくらいには、人に期待してくれる会社だ。正直私はこの会社に「御社に入りたいんです!」と目をキラキラさせて面接に臨んでいたわけではない。「私はこういう人間です。よかったらどうぞ」みたいな態度だったと思う。(こう書くと偉そうな奴だな……)
そんな私が今、プレイヤーとして文章を書く側でいられているのは、とてもありがたいことだ。当時第一志望にしていた出版社に入っていたら、こんな風にプレイヤーでいることは難しかった(し、かなり役割として限定的だった)だろう。
とはいえ、文章で発信したことがある人ならわかってくれると思うが、こんな風に疑心暗鬼になることもある。「人は君の文章を読むほど暇じゃないよ」「誰も君の言葉に耳を貸さない」「文章なんて誰でも書ける。今はAIでさえ。君が書く意味は?」
でも私は覚えている。あの教室の隅で読んだ本は私を救ってくれた。部活で作った新聞が賞を取ったとき。初めて書いた小説が自宅のコピー機から吐き出されてきた瞬間。仲間と作った記事が雑誌の形になったこと。書いた記事がサイトでPV1位を取ったとき、バイト先の上司がかけてくれた言葉。「文章書くの得意だよね」と言ってタクシー会社で文章を書く仕事を、異動してきて数か月の私に任せてくれた先輩たち――人の紡ぐ言葉には魔法が宿っている。自分自身が心からそう信じられないなら、それは今までのすべての思い出に対する裏切りになってしまう。
冒頭の自問自答に答えるとしたら、私はやっぱり文章を書くことが好きなんだと思う。その過程の大変さも含めて。そして、その個性を受け入れてくれた周りの人々を含めて。
人生に意味などという大それたものがあるとするなら、それは私を救ってくれた大いなる魔法に対する恩返しだ。人にしかできない仕事がある。だから私が人生を通して残したい言葉はたった一つ。
「君にも居場所がある」