34夜 私たちの国に共助はあるのか(2)
埼玉県議会で上程された「子供虐待禁止条例案」が本会議の議決案件になることなく提案者によって取り下げられた.委員会通過から,わずか数日のことであるのだが,提案者による取り下げの理由は「説明不足」との事.この議案が出てから,世論の強い反対意見が多くのメディアで取り上げられ,その結果,取り下げの事態になったことは言うまでもないだろう.議案の内容が実態とかけ離れている事は,明白であり本会議にかけられなかった事は喜ぶべきことではあるが,もし本会議で採決されたら可決されただろうという事やあっさりと取り下げてしまったという事をみるにつけ,いったい議員の矜持とは何なのか,昨今の議会制民主主義の惨状をどう理解すればよいのか,この国に議会制民主主義をもたらした先人達がこの状況をみたらなんというか,今一度この国の議会制民主主義の在り方を考えるべき時にきていると言わざるをえない.この問題についてはあらためて考えることにして,本題に戻ろう.
そもそも,この国における他者との関係性の在り方は,東日本大震災で,給水や食料配布の際に,整然と列を作って順番を守って配給を受けたという,海外が称賛した事実にもある通り,他者を尊重するという考え方が当然のように根付いている.つまり,わざわざ人助けをフォーカスしなくても互助の精神が般化しているのである.だからこそ,少し前までは地方の都市部であっても,鍵のかけ忘れくらいですぐに盗難に会う事もなかったし,子供がいたずらをしようものなら,見知らぬ大人でもしっかりと𠮟って,それに対して親が目くじらを建てるどころか,平身低頭な心持で叱ってくれた大人に感謝するのがごく一般的な社会環境出会った.現在では,他人の子供を叱るようなことがあれば,虐待を疑われてしまうような有様になりつつあるのだが.
ここからは筆者の私見であるが、このようなこの国の人々のモラルの高さや高潔さ,互助や共助に対する理解の深さは,おそらく江戸期における階級社会二おいて、戦乱のない世界で人々が平和に暮らすための手段として進化したものだろうと考える.武士階級であれば武士道にみられる生き方の鍛錬であり,庶民層であれば,5人組制度にある相互監視ではあるものの,一方では共助を可能にする機能がこのような当然のような顔をした共助の文化を築いてきたのだろう.
しかし,当然の共助がまかり通る範囲は,あくまで自身の生活圏内であり,生活圏外は共助の限界を示すことになる.江戸期の生活圏の基準は藩であり,藩=国であるから他藩は国外という事になろう.つまり,他藩の人間は外国人ということになるわけであるから,外国人への人助けは想定外なのだ.
どうも話がそれつつあるので,埼玉県の条例の問題に話を戻せば,結局のところ,この国のモラルに対する認識の違いが,今回の条例への批判に至ったのだろう.この国は,未だ子供だけで遊んだり,子供だけで通学したりしても安全だろうという社会通念は成り立っていると考える.だから条例に対する批判への賛同が圧倒的に多かったわけであるし,これからも,子供への大人の共助をベースとした安全な社会を維持していかなければならない.
考えるべきは、個人が安全を確保するための模索ではなく,社会が安全を担保できる環境構築を模索することだろう.そのためには,社会のなかでの人の関係性をどのようにすれば豊かにできるかということを,国として考える時期に来ているような気がしてならない.このことは,社会の有り様だけでなく,経済の有り様をも包含するような気がするのだが.
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