傷つきやすさについて
随分前にこのツイートをしたのだが、その数日後に教室の前で会ったあるお母さんから、「先生、うちの親、死ねばいいのに、とか書かない方がいいですよ。どの親が見ているかわかりませんから」と言われ、どの親というかあなたですよね、と思いながらその場では何も言えず、その後しばらくモヤモヤとした気持ちを抱え続けた。
中学生の子どもたちは、たやすく「うちの親、死ねばいいのにー」と言う。正確には、言うタイプの子と、冗談でも決して言わないタイプの子がいる。僕は「言わないタイプ」だったので、子どものそういう発言にはドキっとすることがあるが、でも、この言葉を過剰に問題視するのはおかしな話で、なぜなら「死ねばいいのにー」という子どもたちが実際に親を殺したいわけではないからだ。
思春期というのは多かれ少なかれ、そういう激烈な感情を持っていることは自然なことで、彼らは瞬間的には「死ね」と思うのに、実際にいつか親が死ぬという現実については想像したくもないのだ。親子げんかのときに「死ね!」とひどい言葉をぶつけて、そのあとわずか30分後には、「ごめん」とひとりで泣いているのは、ごく日常的な光景だろう。
小学校では、「バカ」とか「死ね」という言葉を使ってはいけません、そんな一方的な指導がたびたび行われている。でも、子どもを指導する人たちは、子どもたちが使っている特定の言葉を「使ってはいけない」と抑制するのは不自然なことだという認識くらいは持っておいたほうがよい。
言葉とは、使っている子ども固有のものではなくて、子どもと周囲の関係、つまり、僕と僕らの関係の間にあるものである。だから、子どもの言葉の使い方を正したいならば、それがその子の関係性、その子の「世界」に依拠した形でなければ、その子が自分独特の言葉を見つける過程を殺してしまうことになりかねない。
それにしても、あのときの男子2人の掛け合いは見事だった。「死ねばっ、ネバ、ネバ ♪」という無意味な一人の言葉遊びが、共振した二本の弦みたいにもう一人の言葉を誘発し、そしてしまいには「死ね ♪」「ネバ♪」「死ね ♪」「ネバ♪」という掛け合いが交互にリズムよく繰り出される。
このとき、この掛け合いには天啓に導かれたように新たな意味が生じている。それは「死ね」という煽りに対して即時に「ネバ(=never 否定)」と相手が返すやりとりになっていて、最初に「うちの親、死ねばいいのにー」と言っていたはずの子がいつの間にか「ネバ」を繰り返す役回りになって、自分自身がさっきまで取り憑かれていた「死ねばいいのに」を、過剰なリズムの力で打ち消して浄化してしまっているのだ。
最近は「正しい」配慮をしないと目くじらを立てられることが多くなった。だから「うちの親、死ねばいいのに」という子どもの発言を半ば面白がって書くなんて、僕は「配慮が足りない」のかもしれない。
でも、目の前にいる人が傷ついてそれに反応するのと、不特定の誰かの「傷つき」に対して配慮するのは全然違う。非人称的な他人の「傷つき」に配慮することが倫理になると、行きつく先は自己従属であり、それは、互いに互いを踏みしめることをはじめから放棄するのと同じである。
僕はそのお母さんに「書かないほうがいいですよ」ではなくて、「私は書いてほしくなかった」「私は傷ついた」と言ってほしかった。「書かないほうがいいですよ」と言ったとき、お母さんもどこか喉の奥につかえるようなものを感じなかったかな、と想像する。もしそうだったとしたら、私はお母さんともう少しだけ、声を掛け合ってみたかったと思う。
「僕の傷」を「僕らの傷」に昇華したい願望が渦巻く昨今だが、「僕の傷」というのはいつでもひとりぼっちなものだ。ひとりぼっちを大切にすることからしか見えないことはあるし、ひとりぼっち「どうし」だから、互いに話せることもきっとあるのだ。
*親や子どもを扱う時はフィクションとして書いています。
(季刊文科 2021年8月号「傷つきやすさについて」を改稿)