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コロナ禍とフェイク

以下は西日本新聞のコーナー「随筆喫茶」に寄稿した文章。ちょうど2年前に書いたこの文章を読んで、すっかりフェイク(的なもの)が社会になじんでしまってデフォルト化したいま、過渡期の香りが残るこの文章は記録として貴重かもしれないと思いました。子供たちと世界のフェイクに耳を澄ましていた頃の話。

高校入試を直前に控えた今年の2月中旬、表紙に大きく「中学社会公民」と書かれた参考書を片手に中3のHくんがやってきた。「あのー、先生、これには好景気の特徴として、ほらここ、株価が上昇する、と書かれてますけど、何でいまコロナなのに株価が上昇してるんですか?」 

その日のわずか2日前、日経平均株価は30年ぶりに3万円を超える大台を記録していた。中3のHくんの目から見ても明らかにいまの日本経済は失速している。それなのに株価は歴史的な高さを記録している。このことに疑問を持ったHくんの問いに対して私は「ほんと変だよね」と相槌を打ちながら、「日本や各国が極端な金融緩和と財政出動をしたことで株価が下支えされて、そこに投資が集まったんだと思うよ。ドーピングしてる金メダリストに投資して、後になって大損食らったスポンサーみたいにならなければいいけど」と答えると、Hくんは「やっぱりフェイクな社会ですね」とボソッと言って、自分の言葉に納得したように教室から出ていった。

経済の悪化と株価の上昇という矛盾したままに交錯する2つの現象は、いかにも資本主義システムの限界を示している。このときまで私はそう思っていたのだが、Hくんが教室を出ていった瞬間に、むしろデフォルトでフェイクだからこそ生きながらえる資本主義の未来を垣間見た気がして、こっちが既定路線だったかと暗澹たる思いがした。資本主義はハッタリを意図的に取り込むことで、ますますシステムを強固なものにしている。そしてシステムがより完成形に近づけばそれを誰もフェイクとは呼ばないのだ。

こうした「見えない化」が進むこの社会でHくんはすでにフェイクの効用を知ってしまっている、下手したらもう身に纏ってしまっている。私はそんな気がした。

そして、このような「見えない化」は人を決定的に欺く一方で、人が安穏な生活を送る上で欠かせないものでもあるのだろう。


約1か月ぶりに会ったSさんはとても表情が明るくて私はそれだけで安心した。高2の彼女は医療従事者の母がコロナに感染して、その影響でしばらく教室に顔を見せていなかったからだ。「しんどかったでしょ」私がそう声を掛けると「はい」と笑顔に20パーセントの苦みを添えて彼女は応じた。

「テレビで差別が怖い、という人がいるのを見たんですけど、私は周りの人たちのおかげでそれはなくて。それよりも、お母さんがもしかしたら死んじゃうかもしれないと思ったときが一番怖かったです」彼女はそう言いながらぽろっと涙をこぼした。

私たちはコロナの危険性をいかに喧伝されても心のどこかで「私は大丈夫」と思っている。この心情は油断と批判されがちだが、でも「私は大丈夫」と思える心持ちこそが私たちの明るい生を根本から支えているのだ。だから、その前提を失ったときに彼女は急に恐ろしくなった。

そう考えると、毎日ひっきりなしに続くコロナの報道は、差し迫った死の危険性を伝えているようで、実は(コロナかどうかは関係なしに)明日死んでしまうかもしれない私たちの怖れを「見えない化」してくれている。こうして「見えない化」を味方につけて、私たちは今日もできるだけ穏やかに生きるのだ。


西日本新聞「随筆喫茶」 (2021年7月11日)

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