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それが言葉だよ。

先日は卒業したばかりの中3と卒業旅行へ。フェリーは有明海を西に進む。靄がかかってまるで黄泉の国に浮かぶ島みたいだった雲仙が、次第にその輪郭を露わにする。

「ここで昔、雲仙の溶岩が流れて津波が発生して、その津波が向こう岸に折り返して、そしてまたそれが反対側に折り返してすごい被害が出た」

甲板で海面を見下ろしながら光安君が話しているのは18世紀に起きた大災害、「島原大変肥後迷惑」のことだ。雲仙眉山の山体崩壊に起因する津波が有明海の東西を交互に連続して襲い、島原と対岸の熊本で計1万5千人の犠牲者を出した。

「この海で津波が起こったんだね」「今起こったら恐いです…」。光安君は本当に恐ろしそうに言う。たいていの人は過去の災害を単に過ぎ去った歴史としか思わないが、光安君は今の出来事と同じように見る。人が過去と現在を切り離すのは、屍を見ないようにする知恵なのだが、彼は過去と現在が切り離せないことを知っているので屍が見えている。

以前、彼とこんな話をした。「多くの人は死ぬのが恐い、なんてこと考えずに生きていられるんだよ」。彼は「ほんとうですか。そんなことがあるのかな」。屍が見えている人は世界に対する敬意を忘れないから信頼できる。


「こんなに楽しいのに、みんな誰も楽しくないのかなー?」。
甲板を踊るようにあちこち動いて写真を撮りまくる増崎君。海風と海鳥と太陽と青空の気持ちよさを全身で浴びて、歌うようにそう言う。

みんな楽しいんだよ。でも、みんなが増崎くんのように楽しんでいるわけではない。同じ甲板にいても、数日前の卒業式の話に花を咲かせている人もいれば、下の客室でトランプしてる人もいる。トランプをして面白がっているように見えても、翌日の合格発表が脳裏をかすめて落ち着かない気持ちになった子もいる。みんなで同じ時間に同じ船に乗っているのに、めまぐるしく一人ひとりがバラバラだ。

僕ひとりでは、どうしても言葉が鬱屈してしまう。僕だけでは全然足りないから、同じ時間に全く別の感じ方をしている人がこんなにいることが頼もしくて嬉しい。

言葉が鬱屈したときには大きな力に身を預けてみたくなる。国家でも民族でも宗教でもジェンダーでもいい。特殊性から一般性を獲得する喜びはとても大きい。でも、それで練り上げたものを「僕の言葉だよ」なんて言えない。光安君みたいに、歴史の中に剥き出しの死を見たり、増崎君みたいに、今風に吹かれている気持ちよさを歌ったり。そんなときに口から溢れ出るのが僕の言葉だよと思う。

(2024/4/7 西日本新聞)

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