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大人と子どもの現実は違う
「先生、もうこういう面談は最後ですよね。」
マナさんが急にそう思いつめたような顔で言ったので、私は 「うん、そうだけど」と答えつつも、彼女が何を言い出すかわからないような不安を感じました。
急に寒さが厳しくなった十月初旬のことです。 この日は、近くの私立の進学校に通う高3のマナさんの大学入試前最後の三者面談が行われていました。彼女は中1から6年間ずっと私たちの教室に通っていますから、お互い顔を突き合わせて話をするのはすっかり慣れっこです。 これまでの面談では、お母さんがひとりでマナさんの日ごろの生活について愚痴を言い続けるという展開が多く、その日も、初めからずっとお母さんの小言が続いていました。
「この子、家ではほんっとうに勉強しませんよ。私、いまだに見たことかないんです、この子が家で勉強している様子。」
「はあ? 見てないだけだし。お母さん寝るの早いから、そのあとやってるし。」
お母さんは諦めたような笑顔になって 「ねえ、いつも彼女はこうでしょう」とため息をつきます。
マナさんは、勉強にはあまり熱心でない代わりにたくさんの趣味をもっていました。ゲームやアニメには誰よりも詳しかったし、しかも彼女はそこから自分なりの哲学を得ていました。
彼女は自分の考えを惜しげもなく披瀝することが多く、理不尽な教師や友人の要求に対しても、空気を読むことなく「それ、おかしくない?」と真正面から異議申し立てをするような強さがありました。絵を描くのが好きで、SNSにたびたび自分の作品を載せていましたし、学校の文化祭ではバンドで自作の曲を演じたこともあります。 (彼女はキーボード担当でした。)
とにかく多彩な才能をもった子でしたので、私は彼女に 「マナさんは、勉強というものをもっと広く捉えて、とにかく自分の才能を伸ばすことに専念したほうかいい」と事あるごとに話していました。
「この時期に、こんな話題になること自体おかしいでしよう、先生。 この子、いったいいつになったら自分の将来について真剣に考えるのかしら。」
マナさんのほうをちらちらと見ながら、 お母さんが言います。
「先生、 もうこういう面談は最後ですよね。」
冒頭の言葉は、その直後に、お母さんの小言をしかめつ面して聞いていたマナさんから放たれたものです。彼女はいまからお母さんに逆襲をしかけるかもしれません。
マナさんは、まるでこのタイミングに狙いを定めていたかのような勢いで話し始めます。
「もう、 いい加減やめてほしいんですよね。この子まったく仕方ないわねー、みたいな感じでそうやって上からしゃべるの。お母さんはいつもこうやって私に次々とフラグを立ててくるんですけど、あからさますぎて回収する気にもならないんですよね。」お母さんは何か言いたげですが、 こらえて彼女の言葉を聞いています。
「うちの親、いまだに大学受験をラスボスかなんかと勘違いしてるんです。受験がラスボスとか、ダッサ 」
「してないわよ。」 たまらずお母さんが口をはさみます。
「してるじゃない。だからラスボスに向けていろんなフラグを立ててきたんでしよ。お母さんが私に「勉強しないなら大学に行かなくってもいいのよ」って言うときはいつも、単なる脅しだったじゃない。大学に行くという選択肢しかないくせに大学に行かないのが無理ゲーってわかってるくせに、いつもそういうこと言うでしよ。」
「いや、だからほんとうに大学行かなくってもいいのよ。行きたくない子になんでそんな高いお金を出してあげないといけないの?」
「ほら来た。 一つのレールに乗って進みなさいといままでさんざん言っておいて、それを私にデフォルトで条件づけてきたのに、大学行かなくってもいいのよとか、 よく言うよって自分でわからないかな。」
「もう、ひどいでしよ、この子。何でもわかった気になって。」 そう言いながらお母さんは顔を歪めます。 でも、お母さんには申し訳ないけど、私はマナさんの言っていることかわかる気がします。
「この子は現実の厳しさを知らないんです。 いつも絵ばっかり描いて。 いや、絵を描くのは別にいいんですけど。 でも、それでは生きていけないでしょう?」
「ちがう。 そうやっていつもあなたが言う「現実」を私は見下しているの。 私にとっては絵を描くほうが現実なの。」
マナさんはなかなか痛快なことを言います。
私はそのとき、マナさんがなぜ絵を描くのか好きになったのかを話してくれた日のことを思い出していました。
彼女は両親が共働きの一人っ子という環境で育ちました。小2の夏以降、彼女は学校から帰っても家に誰もいないカギっ子で、「孤独がデフォルト」の子ども時代を過ごしました。 でもその孤独はめちゃくちゃ充実していて、そのときにゲームやアニメの奥深いおもしろさを知り、音楽や絵を描くことを通して、自分を掘り下げていくことの楽しさを見つけました。 これらとの出会いによって彼女の人生はとても豊かになりました。親からは、勉強さえすれば何をしてもいいのよと、ほしいものは何でも買ってもらえたといいます。
「お母さんは私のことを 「現実」から逃げてるって言うけど、お母さんが言う現実はもうないの。ていうか、初めから現実はひとつじゃないの。大人たちが「将来の夢」を子どもに言わせるときに頭の中にあるのは、大人にとってのひとつの現実でしかないじゃない。でも、私から見たらそれはカビか生えてるの。 そんなのダサくて択んでいられないの。子どもに将来を思い描かせても、それは絶望を見せてるだけだよ。大人はデフォルトで絶望のくせに、子どもに希望を持てとかほんとダサいし。私はそもそも絶望してないから。私の言ってること、わからないでしょ。」
お母さんにも言いたいことは山ほどあるはずです。 マナさんは6年間塾に通い続けていますが、ずっとそばで指導をしてきた私の目から見ても、彼女は教室でハイレベルの講義を受講したアドバンテージを十分に生かしきれていません。彼女がほんとうに勉強に没頭する生活を送っていれば、当初の希望だった地元最難関の国立大学にだって十分に合格できていただろうという気もします。
現在の日本では大企業と中小企業の待遇格差が広がっていますから、結婚や子育ての環境を考えたときに大企業に入るメリットは大きく、そのためには大学選びが大切なのは言うまでもありません。その意味では、お母さんが言っていることは何も間違っていません。
でも、マナさんはもう少し原理的な話をしています。大人はいまだに多少なりとも旧来の価値観をひきずったままで、世界にはまるでその価値観しか存在しないような話をしてしまいがちです。そんな使い古された価値観を、ほとんど無意識にあらゆることの前提にして話す親世代の人たちというのは、彼女から見ると端的に言ってダサいのです。
彼女はそれに対して強烈な異議申し立てをしています。それは頭で考えられたものというよりは、もっと感覚的なものです。
お母さんはマナさんに思う存分しゃべらせた後、この子にはもうお手上げといった様子で 「彼女にはこれまで通り、最後まで好きにやってもらいます」 と笑いながら言いました。そして面談が終わるとき、マナさんは 「フラグ、 回収しました」と少しだけ頬を緩ませながら小さくそう言って、二人で帰っていきました。お母さんはマナさんへの反撃を試みているのか、 何かしきりにマナさんに話しかけていましたが、 帰る二人の後ろ姿は不思議と楽しそうに見えました。
マナさんはこの日、 最初からフラグの回収を目論んでいたようです。幼いころから彼女が親しんできたゲームやアニメなどのフィクションが、大人たちが用意する既存のレールの虚構性を暴き、結果として彼女に自由な思考をもたらしていると感じられたことは、私にとって新鮮な発見でした。
マナさんほど自分の感覚を言語化できる子ども (といっても彼女は十八歳ですが) は多くないかもしれませんが、ひとつ言えることは、 大人の嘘はとっくに多くの子どもたちにバレているということです。いまどき、「いまがんばらないと将来困るわよ」といった使い古されたコンテクストに簡単に乗せられてしまう子どものほうがむしろ心配です。子どもたちの 「それ、無理ゲー」 というツッコミは、私たちは大人みたいに初めから無理だとわかっているような無謀なことはやらないから、という意思表示でもあります。子どもには、大人が設定する 「無理ゲー」 にたいした根拠がないことがわかっています。大人が 「将来のために」とロ走るとき、その 「将来」 に光彩はなく、むしろ漠たる不安の影だけがその周囲に広がっているのが見えるから、思わず目を逸らしたくもなるのでしよう。 こうして、大人は子どもに不安を見せておきながら、子どもに希望を語らせようとします。なんて勝手なことをしているのでしようか。そんな大人の 「無理ゲー」 に子どもが付き合う必要はないのです。
大人に与えられたゲームが信じられない子どもたちは、 自分独特のゲームを構築するために動き出します。 その試みが果たして成功するかどうかはわかりませんが、 過去でも未来でもなく、唯一手垢のついていない 「いま」だけを触知しなから、彼らは少しずつ歩みを進めてゆきます。
大人はゲームを生きていながら、 これは現実だと嘯きます。 一方で、 子どもたちはゲームを生きながらも、同時に人生はゲームではないという反定立を打ち立てます。 その痛快さにこそ、世界のすべてがあるような気がします。
『おやときどきこども』ナナロク社 1章より