写真の現在地 1
自分がどういう認識で写真を撮っているのか、わからない。
ただ、そこには世界に対する姿勢が自ずと反映されてしまうものだと思う。
「人が好きだからポートレート撮りたいんだ。」みたいな真っ直ぐな衝動はないものの写真は好きで、撮り続けている。
好きだから、そのまま無意識に取り続けるというのも一興なんだけど、
立ち止まって考えて、何か核心に迫れたならそれはそれでいい。
そのときどきで変遷するものだと思うからこそ、たまには書き残してみる。
視覚表現のことについて、言語表現で記録するという行為。
脳内垂れ流し、note to myselfなので、散らかってるけど、悪しからず。
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昨年、Camino de Santiagoを歩き、本にした際、こんなことを書いた。
そのときに思いついて書き残したが、今でもそう思っている。
視覚を切り取り、残す。視点。
みんなが同じものを見ているようで、だれもが見ている世界は異なっている。写真は、超近接しているパラレルワールドを別視点で有難がる機会をくれる道具。
私の世界には、あなたはこんな風に写っているよという視点はGiftになりうる
などなど、思っている。
見えていなかった光・聴こえていなかった音・実はそこにあった美しさなど、他人の主観が、融解して、ついつい自分のもののように感じて、持ち帰りたくなるときがある。
気づいていなかったけど元からそこにあったような感じで、
撮り手にとっても、
被写体にとっても、
それを見る人にとっても、
一致感があるけど余白もある。
そんな感じ。
とはいえ、人がどう受け取るかなんてコントロールできないので、
「思いかけず利他」になるしかないなとも思ったり。
・・
■その2
自分に同意する写真。
あまり我ながら興奮が外に現れないタイプだと思うが、自分の中では色々感じている(つもり)
その喜んだ感覚とか、なんか非言語ながらに心が動いた感触が、そのまま残りやすいのが自分にとっては写真だなと感じる。
人によっては、言葉だったり、絵だったり、表情だったり、歌だったり。内面の輪郭を捉えやすい媒体は様々な気がしている。
自分で自分に同意しやすいもの。
不一致なく、感じたものを感じたまま表現できると、感情が消化されやすいのかもね
なので、写真を撮っている方が生きやすい感覚がある
■その3
自分の声で撮る。
事実的に、なんとなく記録を残すためだけに撮ることに抵抗がある。
客観に近づけば近づくほど、それは画像ググればいいのでは?と思ってしまうから。
美味しそうなおにぎりがあったとする。
それは、
塩味が抜群に繊細だから美味しいのか
おかんが作ったから美味しいのか
みんなで運動したあとだから美味しいのか
ばくっと美味しいおにぎりと言っても、
自分の中で流れた"美味しい"の声は、微細にみれば世界は色々。
そんな繊細さ、持ち合わせたい(願望)
・・
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