金魚のホルマリン漬け
僕の家にそれがあることを知る人はどれだけいるのか。かれこれと人に見せたことは何度目になるのか、その都度に微妙な反応をされてしまう。
ねこねこ食パンなどという類のブランドがあり、それが販売しているパンがある。猫の形をしている。僕が知らないだけで、世にはすでにねこトーストなる類のパンは少なくない数あるらしい。初めねこねこ食パンを造語とばかり思っていた。でもある人は僕をそう呼び、また別の人も私をそう呼ぶ。彼らの間に関わりは僕の存するところ、ない。
初めて本当のねこトースト、食べられるねこトーストをみたときは感動した。
こんな名前をしているが、実は去年まではトーストというものを僕は食べたことがなかった。
新宿の駅は広いもので、構内を隈なく探せばひとつくらいは改札を通らずにプラットフォームにいける場所があるのでは無いかと思う。
冬の日はつくづく寒いもので、コードやマフラー、手袋の重装備なしには外もまともに出歩けない。
人が死ぬということを、まだ人生の中で体験できずにいる。葬式のときに、私の親戚は顔をして死者を見送るのか。戦争で何人が死んだとか、名前も知らない誰かが殺されて、遠いところで訃報ばかりが流れてくるものだから、そうした出来事の起こらない自分の生活だけが、世間に取り残された気分になっている。実際に訃報が欲しいわけじゃないけれどね。
実は自分が知らないだけかもしれない。昨日まで関わってた人が今日ぱったりいなくなるようなことよりも、その人が死ぬ前にすっかり疎遠になってしまって、後から死んだことを知らされることの方が多そうだ。人間関係はそういうものかもしれない。
人と別れることの最も辛いところは、別れた瞬間よりもそのずっとあとだと思う。たとえばパン屋の待ち列とか、長い廊下を歩く時とか。ふとしたときに白昼夢を見るかもしれない。その人と過ごせるかもしれなかった未来の、過ごせなかった方を生きることは、想像するに耐えがたい。
誰かが乗り込むと黙るエレベーターの静寂さ
人と動画を見てると、動画自体よりも、映像を見ている人の反応の方が気になってしまう。何も悪い意味じゃない。集中を切らしてよそ見をしたっていいし、内容を考察してもいい、笑ってもいい。一つ一つ所作が見えると心底安心する。同じ映像を見ているんだ。本当に、同じ映像を見ているんだ。僕はただそれが、とても嬉しい。