リフレインする感触それが生きる喜び
おはようございます!
生命という器の中にある命
その命を生き切りそして、
よく生きよく死ぬことを
考えています。
このところ
仕事をする中で
救急外来、救急病棟共に、
患者様の足を洗うこと『足浴』
それが連続に遭遇した。
足を洗う行為、それそのものは、
担当看護師として
必要だと思ったときに
また業務の合間に時間があったもしくは作って
その看護師の采配で
実践しています。
今回の連続したケース
それは、
下肢が汚れにまみれて
皮膚が見えない、
長らく入浴できずに
おそらく倒れていたケースでした。
お湯に長くつけて
少しずつ汚れを落とすのですが
なかなか本人の皮膚にたどりつかない。
そこを少しでも足を刺激しつつ
無心に洗う。
確かに、業務は押し迫って
時間はないんです。
でも私は洗いたい。
排泄物や、垢でまみれ、
それは、自らのエネルギーも
一見使う、
だいぶ疲れる行為と
思うかもしれない。
でも、
足浴をしたときの
皮膚が少しずつ、見えて
その人の皮膚が呼吸してくれたときの
ほっとした私の安堵感、と爽快感
時折みせてくれる患者さまの
安堵、笑顔した表情
それが
後々も私の心の中に残る。
それが、仕事が終わっても
ふとしたときに、
私の心の中でよぎる。
一つの記憶であるけれど
それは宝。
ふと心によぎる
足がきれいになったときの
安堵感。
これは自己満足なのか
それとも
エネルギーが、
ケアさせていただいた側と
ケアを受けた側での
循環している作用なのか
それはわからない。
でも私にとってそれは
生きる喜び。
それが無駄かもしれない。
また、汚れてしまうかもしれない。
でも、この時間、この一瞬
足裏を刺激して
その方が少しでも回復へ向かう様に
その方が少しでも生きようと思えるように
私は今日も、足を洗う。
でももしかしたら、
私は足を洗うことで
自分の心を洗っているのかもしれない。
自分が力をもらっているのかもしれない。
一見、そのケアをする方を見ると、
ずっと倒れており、入浴もできず
皮膚が見えないほどの、
汚れや排泄物にまみれている方に
対応する
それは、エネルギーが持っていかれる
大変なこと。
疲れる事
一見そう考えるかもしれません。
ですが違うんですね
これは自己満足からくる
心の高揚感なのかと思ったのですが
そうでもない。
誰かに、明らかに必要で
それが私にとって足を洗うということだった
そしてそれを実践する時間を絞り出し
状況によっては意識もなく
お礼もなく
そして時に状況によると
そのまま生命が終わることもある
それでも
その時御会いした時に
実践したその行動
それは命と命はたぶんつながっていて
その実践した行動が
何らかの形で循環して
還ってくる。
エネルギーが循環する。
そして私の生きる力や
生き抜く力を
作るのかもしれません。
~今日は言語化できませんでしたが
ケアをする側が
実は力を頂いている
エネルギーは、反応がなくとも
たとえ生命が途切れて
関わることができなくても
繋がっているこの感覚を
書きました~
今日もあなたが、しっかりと
地面に足を付けられる方は
大地に足をつけて
もしかしたら足がつけられない方は
どなたかが、足を触ったり
洗ったり、マッサージしていただけて
足裏から刺激をもらい
生きる力が湧き出てきて
生き抜くことを心から願います。
今日もあなたの命にありがとうございます。
そして私の命も今日もここにあることに
感謝して
いってきます。