住吉宮町遺跡の現地説明会に行ってきました
前回の記事はこちら↓
はじめに
現地説明会シリーズ第二弾は兵庫県神戸市東灘区の住吉宮町遺跡です。
毎度のことながらTwitterを見ていると私が一方的にフォローしている古墳巡りスト(古墳を巡る人の意)である「ぺんさん」が
と紹介されていたのを見て、「前回は京都だったけど今回は神戸か……ちょっと遠いな……」と思いながらも経路を調べてみると1~2時間程度JRに揺られていれば着くということで意を決して行ってきました。
住吉宮町遺跡とは
住吉宮町遺跡とはJR住吉駅周辺に分布する古代から中世にかけての幅広い年代の遺構が分布する複合遺跡です。現在に至るまで開発に伴う沢山の調査が行なわれており今回の調査が57回目となります。今回の調査はだんじり会館と呼ばれる施設の建設に伴う発掘調査とのことでしたが、その結果古墳時代の遺構として7基の古墳が見つかりました。今回発掘された古墳群は6世紀末の大規模な洪水によって土砂で真空パックされており、さながらイタリアのポンペイ、群馬の黒井峯遺跡・金井遺跡群のようです。
現代の神戸は港町として非常に発展していますが古くはあの東大寺大仏で有名な行基上人が設置した大輪田泊が始まりとされています。平安時代末期には平清盛が大改修し日宋貿易を行なってことでも有名ですよね。神戸は古くから重要な港であったと言えます。
住吉宮町遺跡のある住吉の地も日本書紀において神功皇后が新羅征伐(三韓征伐)からの帰路に船が進まなくなり祈祷を行なうと「海を渡りたかったら我々を大津渟中倉之長峡の地に祀ればええんやで」という住吉三神(上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命)からの神託を得て、そこで彼らを祀ると無事に海を渡れるようになったという伝承のある地です。
ただしこの大津渟中倉之長峡は住吉大社のある大阪の住吉である説と本住吉神社のあるこの神戸の住吉である説があるそうですが、どちらにせよ、この住吉宮町遺跡の近くに存在した深江北町遺跡で住吉大社の神職を務めていた古代氏族「津守連」に関連する8世紀の木簡が発見されたことからここ神戸住吉の地も津守連が管理する古代日本において非常に重要な海の拠点のひとつであったと言うことができます。
住吉宮町遺跡ではこれまでの調査で100基を越す古墳が発見されておりここ一帯はヤマト政権に港の管理を任された、後の津守連に繋がるような海を拠点とする一大豪族集団の墓域であったと考えられているのです。
発掘現場
住吉駅に着いたのは13時頃。当日の神戸は33℃程度だとウェザーニュースで見ていたので少し安心していたのですが駅から外に出るとめちゃくちゃあっっっっっっっつい!!!!!!!!街中の33℃は体感40℃くらいはあるので皆さんは気をつけて下さい。汗をダラダラかきながら発掘現場があるという幼稚園の跡地を目指して歩き始めました。徒歩5分くらいで現場に到着。早めに着いてしまったものの、作業員の方が「もう入って見学して頂いても大丈夫ですよ!」と言ってくださったので早速中へ入り受付で手指をアルコール消毒しパンフレットを頂いて見学開始。
以下見学順です。
57-3号墳
発掘現場に足を踏み入れるとまず眼下に飛び込んでくるのが57-3号墳。この古墳は5世紀末から6世紀前半に築かれたと考えられる一辺6m、高さ1.2mほどの方墳(文字通り、四角い形の古墳)です。まばらに葺かれた葺き石が特徴で、埴輪は存在しません。墳丘の一部が飛鳥時代の住居によって破壊されているものの、学芸員さんのお話ではまだ埋葬施設が残っている可能性があるのだそうです。当日は絶賛発掘作業中で作業員の方が供献土器と見られる土器を発掘していました。
隣にいたおじさんが作業員の方と
と言うやりとりをしていました。いや、知らんのかい!!
1号低墳丘
今日の現地説明会では設定された通路内だけではありますが発掘現場の中に立ち入ることができます。発掘現場の中は古墳時代の地表面まで掘り下げられており、今自分は古墳時代人と同じ地面を踏みしめて同じ目線でこの古墳群を見ているんだなあと思うと少し感動してしまいました。
さて発掘現場内に降りると右手に1号低墳丘が見えます。この古墳は6世紀の中頃から末に築かれたと考えられる一辺3m、高さ0,3mほどの方墳です。葺石や埴輪は存在しないようです。後世の削平によるものか墳丘のマウントが非常に低く、おそらく埋葬施設は失われているとのことです。
そして墳丘の中央に斜めに走る線は、おそらく慶長伏見地震の時に発生したと考えられる噴砂現象の痕跡であるとのことで、慶長伏見地震はあの大阪府高槻市今城塚古墳の石室や墳丘崩壊の原因にもなったと考えられる地震であり、その地震が神戸のこの古墳にも影響を及ぼしていたというのはなんとも自然の恐ろしさを感じさせます。
2号低墳丘
2号低墳丘は6世紀中頃から末に築かれたと考えられる一辺6m、高さ0.8mほどの方墳です。1号低墳丘と同様に葺石や埴輪は存在しないようです。今回発掘された他の古墳は全て主軸が南北であるのに対し、この2号低墳丘だけは少し西側に傾いて築かれているのが特徴です。後世に墳丘上に掘立柱建物が築かれた影響もあってか埋葬施設は現存していないと考えられています。
57-1号墳
発掘現場において一際異彩を放っているのがこの57-1号墳です。この古墳は5世紀前半に築かれたと考えられる一辺6m、高さ1.2mの方墳です。墳丘斜面にはびっしりと葺石が敷き詰められており、墳頂には埋葬施設が確認できました。まだ埋葬施設の発掘は行なわれていませんが、見る限りではおそらく木棺直葬(木の棺を直接穴に埋める一番シンプルな埋葬方法)なのではないかと思います。今後の調査が楽しみな古墳です。
57-4号墳
発掘現場の北西端に墳丘の隅だけ見えるのが57-4号墳です。この古墳は発掘範囲の関係で全体が明らかではないため大きさは不明ですが、5世紀前半頃に築かれたと考えられる高さ1.3mほどの方墳です。
2-3号墳
発掘現場の中で異彩を放つもう一つの古墳がこの2-3号墳です。この古墳は5世紀末頃に築かれたと考えられる一辺16m、高さ1.5mほどの方墳です。この古墳は墳丘が一辺16mと他の古墳と比べても大きく、2段築成かつ埴輪を有するという点で今回発掘された古墳の中で最も位の高い人物が葬られたと考えられています。
発見された埴輪は最もオーソドックスな円筒埴輪で、墳丘上の各辺3箇所に樹立されていました。そして特に東側の辺に樹立された円筒埴輪は、古墳築造から約100年間樹立状態で露呈していたと言うことがわかりました。
埴輪と言えばもっと墳丘上に隙間無くずらーっと並んでいるイメージがあったのですが、学芸員さんに話を伺うと
とのことでした。
57-2号墳
57-2号墳5世紀末頃に築かれたと考えられる一辺16m、高さ1.5mの方墳です。墳丘の大きさは2-3号墳と同規模で、2段築成である点も同様です。しかし現状では埴輪が発見されていないのでこの古墳の被葬者は2-3号墳の被葬者より地位が低い人物だったのかもしれません。
今回の発掘調査でわかったこと
今回の調査で新たにわかったことが2つあります。
1つは住吉宮町遺跡の古墳と畿内ヤマト政権の古墳の関連性です。以前の調査で墳形や埴輪で差をつけて豪族内の身分差を表現する方法が大阪府堺市百舌鳥古墳群と同じであること、住吉宮町遺跡の古墳で発見された埴輪が今城塚古墳などに用いられた摂津産の埴輪と共通した製造方法であることが明かになっています。しかし今回の調査では5世紀末の古墳における葺石の簡略化された貼り方が百舌鳥古墳群に存在する土師ニサンザイ古墳(全長300m、前方後円墳、5世紀末)と共通しているということが明らかになったのです。
ヤマト政権は地方豪族達を自らの支配下に組み込むために彼らに規格化された古墳の築造方法を伝えていた可能性があると言われていますが、今回の発見はその説を補強するものなのではないでしょうか。
そしてもう1つは古墳時代の人々の先祖供養についてです。今回発掘された7基の古墳の内、57-1号墳及び57-4号墳は5世紀前半(東グループ)、57-2~57-3号墳及び2-3号墳は5世紀末(西グループ)、1号及び2号低墳丘は6世紀中頃(中央グループ)の築造と考えられています。今回の発掘で中央グループに属する6世紀中頃の古墳人達がそれ以前に築造された古墳を管理し整備していた可能性があることがわかりました。
遺跡を発掘しようとする際は土の色を判断材料にして掘り下げていきます。今回で言えば古墳時代の地表面は黒っぽい色をしているのですが、37-2号墳や2-3号墳の周濠は茶色の砂っぽい色をしているのです。
これが示すことは、6世紀中頃の古墳人が5世紀末の古墳の溝を掃除し、掘削して整え直していたと言うことです。さらに2-3号墳の項でも紹介しましたが、2-3号墳の東側の辺の円筒埴輪は設置されてから100年間樹立状態で露呈していたと考えられています。円筒埴輪が100年もの間風雨に晒されながら墳丘に樹立したままでいられたのはひとえに古墳人達が先祖の古墳を大切に管理・整備していたからではないでしょうか。
今回の発掘調査で住吉宮町古墳人のヤマト政権との密接な関係と、彼らの先祖を大切にする心が見えてきました。この遺跡は残念ながら調査後に破壊されてしまうとのことですが、彼らが持っていた先祖に対する気持ちや心意気は”無形埋蔵文化財”として今の私たちも大切にしていくべきだと思います。
おまけ
おまけのQ&A
葺石の葺き方が雑になっていくのは埴輪の作りが時代が下る毎に雑になっていったり、竪穴式石室が粘土槨になっていったりするのと同じなのかもしれませんね。
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