高齢者の幸福「居場所が9割」 金や健康よりも大事な理由・・・という記事の紹介です。
今日は、今年最後のお給料の振り込みをしてきました。
4月から始めた事業ですが、ベテランのサ責二人には何とか300万円以上のお給料を支払う事ができました。
そろそろ黒字化できそうなんですけど、総収入の中に処遇改善関連加算の収入が含まれていて、その分のやりくりを考えると法人第二期が始まった12月の段階で、僕自身の役員報酬を処遇改善関連加算の収益分くらい減額して法人として利益を出しやすいように工夫をしたのですが、そうなるとなんと僕のお給料が一番安くなるという何とも面白い状況になりました。
それでも予防の利用者さんが半分以上というバランスの中で、何とか黒字が見えてきたのは喜ばしい事と、崖っぷちギリギリでなんとかなりそうなこの緊張感が何とも言えないですね。
さて、今日はこちらの記事の紹介です。
実際、最後まで住み慣れた自宅で、という利用者さんは多いですし、僕自身も漠然とですが病院ではない居場所で最後を迎えたいと思っています。
実際、お元気な方を見ていると、お友達や地域との繋がりがしっかりあって、自然と他者との交流が出来ていたりする方がお元気ですね。
ですので、どういう環境で過ごすのか、というのはとても重要なポイントと思います。
これ、認知症の方についても同じような事がいえて、本当は出来る能力があってもさせてもらえないから余計に能力が低下してしまうような状況は多いと思います。
特に介護現場では、転倒させたらアウト等、事故やリスクを極端に恐れる風習があり、昨今の訴訟などの報道でよりそういった傾向が強くなっていると思いますし、そういう環境でチャレンジできない現場の状態が、現場介護職の実践力や応用力を低下させていて、それでかえって重度化を招くというような悪循環をもたらしているようにも感じます。
特にこれからの地域包括ケアの時代(・・・に本当になるのであれば・・・)では、認知症の方であっても高齢者であっても地域で活躍できるような環境や実践が不可欠だと思いますので、そういう高齢者を含めた地域全体での助け合いは重要な視点と思います。
もともとは介護現場もこういう取り組みを目指してきたと思いますが、リスクマネジメントや少ない介護職で多くの利用者さんを管理するマネジメントが進んだ事で、大いに期待して能力を発揮してもらう環境は生まれにくくなってしまったようにも感じます。
認知症ケアの実践の歴史の中でも、大集団の中よりも小集団でそれぞれ認知症の方が役割を担って出来る事を発揮して暮らす事で認知症の周辺症状がおちついて過ごせるようになった、というのは周知の事実ですが、そういう実践があったにも関わらず、現状でもそのような実践にチャレンジしている事業所は希少のような気がします。
ユニットケアも、そういう実践ができる手段であったはずなのに、ユニットケアという体裁を整える事自体が目的となってしまっている施設が多いのではないかと思います。
僕らが関わっている利用者さんでも、やはり足腰が衰えて中々友人知人の所に会いに行けなかったり、地域の集まりに出かける事も難しい方が多いです。
ですので、ヘルパーとの交流や出会い自体を楽しんでもらえるような支援でありたいと考えています。
外に出かける、というだけでも様々な刺激を得る事ができますし、それなりに準備もするので結構体や頭を使うんですよね。
ヘルパーの支援も、そういう地域との繋がりを広げられるような支援内容も認めてもらえるといいのですが、結局そこは本人が頑張るしかないというのが現状でしょうか。
ヘルパーの出来る事出来ない事ってややこしいんですよね。
せめて地域行事や友人知人と会うための外出や、日常的な散歩とかも認めてもらいたいですね。
そもそもなんで出来ないのか、そもそもなぜダメなのかも不思議です。
高齢者がどんどん地域に出て活動するには、そういうルールの緩和とかも必要になっていきそうですけど、そういう事は住民同士の助け合いでやりなさい、というのが国の方針なんですけど、そういう方針のもとでどれだけの地域で実践がうまくいっているのかも不透明ですし、少なくとも僕が実際に見ている地域では上手くいってない状況です。
そして、そうはいってもヘルパー不足でそういう支援もこれから出来るようになったとしても、それが出来るほど地域に人材がいないという状況になりそうです。
僕らの事業所もいよいよ新規紹介の受け入れが難しくなってきている状態ですので、これからどうなっていくのか不安ですね。
とりあえず日々の実践の中で利用者さんが少しでもポジティブになれるような取り組みを僕らの出来る範囲で進めていきたいです。