生産よりも消費に重心を置く



長い時間「見られたら嫌な自分」でいるとふと「何かしないとやばい気がする」と思うことがある。

ここでの何かとは生産的なことである。
例えば勉強だったり家事だったりの目に見える価値だ。

何も価値を生み出していない上に現状に満足している訳でもない自分が無価値な存在のように思えてどうしょうもない不安に駆られる。

今日WBCにて日本が優勝した。
とても興奮した。
あんな風に多くの人々を沸かせられる彼らが輝いて見えた。
そして我に返る。
なら自分は何ができているのだろうか?と。

ただ最近思うことがある。

私は多くの人々に影響を与えられる素晴らしい「生産者」になるのではなく
素晴らしい生産者が与えてくれる大切なものを正しく受け止められる良い「消費者」になる事に力を注いでいきたいと。

多くの人々に力を与えるために周りの人々を蹴落としあって生きていくことに疑問を感じる。

ある人が罪を犯したとする。
その罪を犯した人間の犯行動機が競走に敗れた末の劣等感からだった場合その競走の勝者のことを果たして英雄と呼べるだろうか。

もちろん競争社会を真っ向から否定する訳では無い。
それによる恩恵が大きいからこそ今この世界が成り立っていて私もそれによる恩恵を多分に受けとっているのだから。

それでも競走なんてしたくないと思っている人もいる。
と言うより知らぬ間に競争させられひとたび脱落してから自分の本心に気がつくことの方が多い。

競走では「負け」とされる人々の方が当然多くなる。
ならばその後の生き方をいいものにするための策が少しでもあればいいと思う。

その生き方はたぶん「競走」とかいうくだらない議論からいち早く抜け出して自分で行動を決めた人にだけ手に入るものだ。

負け犬の遠吠えのように聞こえるかもしれない。

でも私はなにかこの世界に違和感を感じている。


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