#20-D 底辺大学の教員 その1
新年度が始まりました。桜舞う季節、新生活の始まりにワクワクと胸をふくらませる人がちらほら出てくるこんな季節。我が底辺大学にも学生と教員が新しく仲間入りしました。
本日は、底辺大の教員の話。
私もその一員だということは重々承知。
こちらで書いたように、底辺大の教員の質はある程度低い。ここでいう質に人柄は含まない。いい人もいっぱいいる。でも、そういう話じゃない。アカデミックで生きていくには、研究と教育ができるかがもっとも重要だろう(政治とか大学運営はそもそも教員のやることか?と常に思っている)。
底辺大の教員には実践家も多い。長らく現場にでていてアカデミアに来られた方々である。そのような方々にはもちろん経験と現場スキルがある。しかしこのような教員も上記のような質が低下する原因になっているのはないかと感じる。特に研究。
彼らには当然ながら研究者としての経験がない。現場では目の前の事象に適切に対処することが求められる。それも当然素晴らしいスキルなのでただの研究者にはできない。わかりやすく心理学で例えてみよう。
心理学の現場といえば「臨床心理学」である。いわゆるカウンセリングを中心とした、心に問題を抱えた人を対象に、その適応や回復を目的として介入を行う、そのための学問である。端的に言えば会話を中心とした接触を通して心の病気を治療しますよ、と。なので心理学で現場にでていたというと、病院や施設で心理士として働いていた人を指す(ちなみに臨床心理士の仕事は専門知識よりも人柄やコミュニケーション力が重要で、実は結構誰でもなれる、というのはまたいつか話します)。
病院や施設、学校で現場に出るというのはもちろん立派なお仕事で、それによって助かっている人もいるので、なんら文句を言うことはないのですが、そのような方が大学に来て、学問を教えようとすることに疑問を感じる(ちなみに今は心理学で例えているだけで、この領域に限った話ではない)。
彼らには研究の素養がない。素養がないので当然研究はできない。授業で科学的知見を紹介するときも、教科書を読むだけになってしまう。過去記事に書いたような稀な「光る学生」が突っ込んだ質問をしても、有効な回答ができない。
というかそもそもそういう事態を防ぐために質問をさせないような授業を行う。教育の質も低くなってしまう。
現場経験に基づいた教育ができるというメリットはある。そのような授業は現場にでていない人にはできないが、学問はまずは基礎的なところだろう(分野にもよるだろうが)。実践家の話は、半期授業を通して1コマをだれか今も現場に出ている人に登壇してもらえばよい。その方が、「私が現場に出ていた頃は~」という枕詞は不要だろうし。
なんかうちの大学では実践家が上のような空気感があるので、イラッとして書いてみた。上下でいうと、学問においては研究者が上だろう。「学問の実践家」は研究者である。
もちろん、ちゃんと研究をしている人ならね。
220823 追記
こんな記事を見つけた
実務家教員、やはり「罪」は大きいようだ。本記事と同じ様な事書いてあって失笑。ついでにいうと、やっぱ結構お年を召した方が多くて、情報リテラシーとか備わってない。第一の仕事道具であるはずのPCが使えない。Zoomとかでうまくいかないと「パソコンがおかしい」という。これは老いた事務職員(あるいは底辺大のおいたシステム)も同じで、めちゃめちゃ職人技で作り上げた初期のワードやらエクセルやらのテンプレを大事にずっと使っていて、xlsやdocファイルのままだったりする。変な機能をフル活用してて、柔軟性ゼロ。そしてあいつら…
あ、愚痴がとまらない。このへんでやめとこう。そして就活しよう。
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