20.動けなくなる理由を考察したときのメモ書き(無数の「べき」の上に立っている)

 せっかく頑張って外出したのに、目的地の最寄り駅で動けなくなり、近くのショッピングモールで日記を書いて気持ちを整理していた。かれこれ3時間。時間を無駄にする天才だと思う。
 その中で少し面白い考えに至ったのでここに記録しておきたい。私は無数の「べき」に縛られて動けなくなっているのではないかという話。
(もしかしたら他の人からしたら言うまでもない当然の考えなのかもしれない。その場合は温かい目で見守ってやってください。)

 以下が日記からの引用である。少し表現は変えている部分もあります(引用とは)。

 私はどう立ち回ればいいんだろう。そう思っていることが多い。
 大人として、後輩として、大学院生として、死にたい人間として、休学を決めた人間として。
 あー、肩書きって案外色々あるんだな。そしてそれぞれについて世間から抱かれるイメージとか責務がある。無数のそれらが交わった小さな重なり合いのところに私は立っている。
 あちらを立てればこちらが立たず。自分が本当は何をしたいのかも分からず。重なり合った上に呆然と立っているだけ。

 割とちゃんと自分の感覚を言語化できた気がする。べき論や義務感に縛られやすい生真面目な人の中には共感してくれる人も多いんじゃないかな。どうでしょう?

 それから、観点によって肩書きってこんなに増えるんだなって思った。私はこれまでメインとなる肩書き(私で言えば大学院生?)にしか着目してこなかったけれど、無意識の中ではこんなにいろんな視点を気にして窮屈になっていたんだな、と。

 そしてここから、次のような気づきを得た。

 あぁそうか、この重なり合いの上にいつまでも立っているわけにはいかないんだな。
 すべてに対して常に中庸でいることはできず、居心地が悪くなることも覚悟してこの重なり合いから動かなければいけないのか。

 人生は立ち止まってはいられない。どうせ時間は流れるから、不変ではいられない。だから、いつまでも同じ場所(今回の日記で言えば「重なり合いの上」)にいるわけにもいかない。
 ちょっと概念的すぎて、論理的には正しくないんだろうけれど、私はそこそこ納得した。

 ……ま、だからどうってことじゃないんですけど。

 これまでは居心地の悪いことはきっと良くないことなのだろうと思っていた。居心地の良い選択を重ねることが最善だと思っていた。
 でもそれは正しくないかもしれない。むしろ居心地の悪さを選ぶことが総合的には良いことになるのかもしれない。
 そう思えるだけで、あまり恐れずに物事を始められるようになるかもしれない。そんな希望が垣間見えた気がします。

2024/03/14

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