2. 知りたがりのエレナ
私立ミレトス学院は、五百年前の城砦都市ハレーの遺構を改修して作りあげた全寮制のマンモス校である。かつて栄えた王国の宮殿がそのまま講堂として生まれ変わり、この学校のシンボルとなっている。
附属図書館は講堂のとなりに建てられた三階建ての建物だ。空から眺めると、大きな楕円型のドームの隅に四角い枡をくっつけたような、不思議な構造をしているのがわかる。
中央のドームはかつて王国の円形劇場だったところで、現在は吹き抜けの開架書庫になっている。深い擂鉢状の斜面すべてが本で囲まれており、訪れた人々はまるで本の森に迷い込んだような錯覚におちいる。枡形の部分はそれぞれ北の室、東の室、南の室、西の室と呼ばれ、別々の機能を担っている。
夕方、四つのうち北の室に外から一匹の小さなリスが忍び込んだ。リスは慎重に、かつ軽快な身のこなしで人と人の間をすばやく飛び回り、まっすぐ階段を登っていく。
彼は大好物のクルミの匂いを追っていた。彼にクルミをくれる唯一の「飼い主」も、きっとそこにいる。
北の室の三階は貴重図書室になっていた。
貴重図書室は、蔵書のなかでも特に価値が認められた書物を鎖につないで保管するための部屋だ。閲覧するにはあらかじめ申請が必要で、閲覧にも一定の制限が設けられている。職員のなかで最年長のウィルゴーおばさんが厳しい監視の目を光らせており、学生たちは彼女を魔女おばさんと呼んで恐れていた。夕暮れのいまの時刻は帰寮する生徒が多いので、室内にはウィルゴーおばさん以外だれもいなかった。
「おや、リゲルじゃないか」
ウィルゴーおばさんは苦笑して言った。
「あいにく、エレナは古本さがしにご執心だよ」
太い唇をにんまりさせて貴重図書室のさらに奥を顎でさした。部屋の角から冷たい北風が漏れている。そこは隠し扉になっていて、屋根に突き出た円筒形の空間「天狼の間」に通じている。クルミの匂いもますます濃くなってきた。
リゲルが部屋にすべりこんだ。
夕闇にまぎれ、動く人影がある。
「天狼の間」は図書館のなかでも限られた人間だけが入室を許された特別な場所だ。壁ぎわには無数の壁龕(彫刻を飾ったり、本棚の役目を果たしたりする壁の窪み)が造られていて、そこにぎっしりと冊子本や巻子本が並んでいた。壁龕の高さは合わせて成人男性の五倍ほどあるだろう。
壁に立てかけたハシゴの上で少女が本を物色している。つづいて、すらりとした色白の脚がまっすぐに伸びた。となりのハシゴの板に爪先をひっかけ、まるで軽業師のように器用に飛び移る。天窓から差しこむ夕陽が反射して、エメラルドの瞳がきらきらと輝く。
動くたびに揺れるエバーグリーンのロングスカート。同系色のケープには金糸で縁どりがなされている。そして真っ白なフリルブラウスの左胸に、私立スミルナ学院の校章である天秤のエンブレム。
濃茶のシルクリボンで豪快にくくった金髪は彼女のトレードマーク。白い首筋からのぞく銀のネックレスの先端には、ミニマムサイズのブローチが上衣の内側に隠されている。
彼女は類まれな美しさと、風変わりな性格で校内に知らぬ者はいない、エレナ・ローゼンハイムそのひとであった。
「あらリゲル! なにかおもしろい出来事は見つかったの?」
エレナは飼いリスのリゲルに気がつくと、ハシゴの上から高らかに叫んだ。
「わかってる? 485回目の失敗は許されないのよ!」
言いながら、するするとハシゴを下りてリゲルと目線を合わせるようにしゃがみこんだ。ポケットからクルミをひとつ取り出し、人差し指をピンと立てる。
「いい、リゲル? あなたと初めて会ったとき、あなたは木の根っこが七色に輝く不思議なご神木のありかを教えてくれました。私はその素晴らしい才能を見込んで、私に代わっておもしろい出来事を見つけてくれるのなら、ご褒美にクルミをあげましょうと契約を交わしました」
滔々と語るエレナをよそに、リゲルは手元のクルミを欲しがって前歯を鳴らしている。
「それがたしか、えっと……。そう、二年くらい前の話ね。さて、この二年間、私は一度もクルミをあげなかったことはありません。私は契約を守る女です。しかし! よいですか、リゲル。あなたは484回中の484回、一つもおもしろい出来事を教えてくれないまま、いたずらにクルミを消費するばかりなのです! これが甚だしい契約違反であることがお分かりになりますか? どれだけ私が苦労してクルミを買い集めているか、考えたことはあるのですかっ!?」
せっかくの綺麗な金髪をぐしゃぐしゃ掻き回して呻くエレナ。
「ああ、リスに偵察を任せたのが間違いだったのかしら……。本を読むだけじゃつまんないのに……。なにか、なにかこう、心躍るものがほしいっ!」
「静かになさい、エレナ」
ウィルゴーおばさんが入口のそばにやってきて、じっとりした目でエレナを睨んだ。
「いいじゃないの、ウィルゴー。どうせ他の生徒は帰ったんだし」
「いいわけがあるかい。仮にも図書館長の孫娘がリスと喧嘩してるなんて噂が広まれば、館長の面目が丸つぶれじゃないか」
「お爺さまのことばっか贔屓にして……。この意地悪ウィルゴー」
「古ユーリア語で悪口を言っても無駄だよ」
ふん、とエレナは唇を尖らせた。現在は帝国民のほとんどがガリシア語を日常的に話している。だからウィルゴーおばさんは古ユーリア語を聞き取ることはできないが、エレナの語気の荒さや発音のニュアンスから悪口だと察したらしい。
「それはそうと、エレナ。お前の調べものは進んだのかい」
「まあ、そこそこってとこね」
エレナは気を取り直して咳払いをした。
「ひとつ。なぜ食堂で出されるピンチョスが毎月の最初の週だけ不味いのか! これは天然の良港であるイニティウム湾が、月始めの安息期間に閉鎖されるために、厨房の調達係が新鮮なメルサを仕入れることができないから。ピンチョスの美味しさは魚の鮮度が命なの、知ってるわよね? そして、調達係はメルサが手に入らない間、内陸ルートで塩漬けの魚を仕入れてることも掴めたわ。その魚は、クアルタ塩っていう粗悪な塩で漬けているそうなの。どうりでやたら磯臭いと思ってたわ」
リゲルはエレナの手からこぼれ落ちたクルミに飛びついて、硬い殻を噛みはじめた。
「他には?」
「ひとつ。真夜中に激しい雨が降ると、私たちが住んでいる女子寮の床から変な足音が聞こえる件。初めはよくある怪談話かしらと聞き流してたんだけど、この前の嵐の夜、たしかに床から足音みたいなのが聞こえてきたから、これは調べなきゃと思ってね。寮友のカペラなんか恐怖で眠れなくなっちゃって」
「お前とちがってカペラは信心深いからね」とウィルゴーおばさんは言いたかったがやめておいた。口達者なエレナに反論するのは月を撃ち落とすより難しい。
「寮の構造に問題があるのかと思って、『天狼の間』にある女子寮の図面を眺めてみたんだけど、結局よく分かんなくて。あちこちの文献をあたったり、他の寮生に聴き込みしたり、それでも分かんなかったから都市庁の施設課を尋ねたりしたの」
「ひとりで都市庁に行ったのかい!」
「ええ、なにかおかしい? お爺さまから頂いたブローチがあれば、大抵の大人は言うこと聞いてくれるわよ」
胸元から取り出したブローチには、大きな八芒星の両わきを挟むかたちで二本の蔦が囲んでいる紋章が刻まれている。
「エレナ……。悪いことは言わないから、それを便利だと思って使いすぎるんじゃないよ」
不安を湛えた表情を浮かべるウィルゴーおばさんをよそに、エレナは自慢げに続けた。
「そしたらまさかの大当たり! 女子寮だけじゃなく学院周辺の地形図を見せてもらったんだけど、この辺は全体的に傾斜地になっていて、大雨が降るとちょうど女子寮がある地面の地下に巨大な水たまりを作るようになっていた。そして、いま改めて校舎竣工についての記事を漁ってみたら、なんと! 寮の下水道は四十年前に工事をしたきり改修されていないことが分かったの。さあウィルゴー、ここから何が導き出せる?」
「老朽化した下水道に穴が開いちまって、大雨がくるとそこから漏れた汚水が地下の巨大な水たまりにドボンドボンと落ちている。それが反響して変な足音に聞こえるってことかい」
「ご明察。さっそくお爺さまと施設課の方に下水道の改修をお願いしにいくことにするわ」
エレナはクルミを食べ終わってご満悦のリゲルを肩に乗せると、意気揚々と貴重書庫室を出ようとした。ウィルゴーおばさんはエレナの細い腕を掴んで引き止めた。
「今日はおよし。戦勝パレードの最中、街で乱闘があったそうだから」
「乱闘? 変な話ね。でもあれだけ守衛がいたんだから犯人くらい捕まったでしょ」
「それが、初めに騒ぎを起こした強盗はお縄になったんだが、その強盗は正体不明の誰かの手で倒されたそうなんだよ」
「正体不明? 倒された?」
不覚にも、ウィルゴーおばさんの言葉がエレナの好奇心を刺激した。
「強盗同士の仲間割れかね。なんにせよ、逃げた人物の身柄はまだ確保できてないから、今日は私と一緒に……」
「分かった! お気遣いありがとう、ウィルゴー。でも私は平気だから!」
ウィルゴーおばさんの腕を振りほどいて、エレナは一目散に図書館の階段を降りた。
すっかり陽が落ちた凸凹の坂道を、半ばスキップするように進んでいく。肩に乗ったリゲルは落とされないよう必死で飼い主のケープにぶら下がっている。
「リゲル、実はさっき、お前の毛が血で汚れているのを見ちゃったの」
暗闇を走りながら、エメラルドの瞳が妖しいまでの輝きを放っている。
「お前の怪我じゃなかった。しかもその血は湿っていて真新しい。ウノ市街の中心部には、お前の大好物のトチの実やクルミがけっこう道端に転がっている場所。ここにウィルゴーが話してくれた昼間の乱闘事件を考え合わせるなら……。きっと、お前は知っているのよね」
リゲルがエレナの身体を離れて地面に降り立った。ちらと飼い主の顔を見て、タッと走り出す。
「案内してくれる? その事件が起きたところまで!」
リゲルは元気よく跳躍した。
(つづく)