【朗読劇】大観園の糸 後編
(前編はこちら)
【Bパート】
〇松花江のほとり(夜)
昭一「ほんとハラ空いてんのな」
N:糸は焼いたナマズになりふり構わずがっつく。続いて磯貝にしゃぶりつく。
~Aパートの終わりから継続~
N:さすがに十三歳の少女を傷つけることは抵抗があり、しかも少女は傷だらけ・栄養失調とあって、昭一は仕方なく松花江のほとりまで連れていった。昭一は得意の漁でナマズを捕まえ、糸が持っていた石刃で磯貝を獲った。火おこしは昭一が馬賊時代に身に着けた技術だ。
昭一「意外とイケるな、ここの魚」
N:昭一が一口ずつ味わって食べるのに対し、糸はもう自分の分を食べ終わり、昭一の分にまで手を伸ばそうとする。
昭一「バカ! 行儀わりいぞ。他人のもん食うなんて」
N:糸は不思議そうに昭一を見つめた。伸ばした手は虚空を彷徨う。
糸「行儀……?」
昭一「ああそうだ。まあ、『衣食足りて礼節を知る』の衣食が足りてねえんだから多少の無礼には目を瞑ってやる。だがな、いくら腹が空いてても他人のもんは盗っちゃならねえ」
糸「死ぬよ?」
N:驚いたのは昭一のほうだ。
糸「盗らなきゃ死ぬよ」
N:常識だろうと言わんばかりに、同じ言葉を繰り返した。昭一はため息を吐いて自分の魚を差し出した。
昭一「お前な……」
N:糸はお礼も言わずに魚を奪い、食べる。食べ終わっても満足できず、骨にまでしゃぶりついた。
昭一「こいつに礼節を教えるの、相当骨が折れそうだ」
N:ナマズの背骨が、糸が舐めすぎたためにポキッと折れた。
〇松花江のほとり(夜更け)
N:すっかり夜が更けて、涼しい風が樹々を揺らしていた。空には満州の星が輝いていた。昭一の上着を羽織って横になる糸。昭一のはだけた上半身からは、精悍な上腕と胸筋が盛り上がっているのがわかった。
昭一「お前、名前は」
N:糸は、答えるべきか警戒していたが、
糸「糸」
N:と、自分の名前を答えた。
昭一「糸か。いい名前だ」
N:生まれて初めて自分の名前を褒められて、表情がこわばる。恋に似た感情だが、まだ彼女は自分の気持ちに気づいてなかった。
糸「いい名前なもんか。あ、あたしの家じゃ誰もそんなこと言わない。え、ええと、お前」
昭一「昭一。元号が改まった、最初の年に生まれた」
N:昭一はようやく自己紹介した。しかし糸は祖国の日本も改元も天皇も知らない。糸が続けて尋ねた。
糸「昭一は変だ。あたしの名前をいいとか言ったり、死んだふりしたあたしにナム、ナムなんとかって唱えたり」
昭一「南無阿弥陀仏のことか?」
N:糸は頷いた。
昭一「死んでると思ったんだよ。そしたらお前が襲って」
N:苦々しく昭一は言った。今更ながら怒りがわく。
糸「そうじゃない。なんで死んだ奴に言葉なんてかけるの」
昭一「なんでって」
糸「死んだ人間を見つけたら、服を剥いで道のまんなかに捨てるのが普通でしょ」
N:昭一は重々しく糸をにらんだ。
昭一「それ、本気で言ってるのか」
N:と怒った。
糸「本気も何も、ほんとのことじゃん」
N:昭一は我慢できず、思い切り糸の頬をぶった。身体が弧を描いて吹き飛ぶ。顔が赤く腫れ上がった。
昭一「なんて罰当たりなガキだ! 人の命を侮辱しやがって! 他人様からメシをもらったくせに、服も着せてもらったくせに、礼のひとつも言わないでさあ!」
N:昭一は戦死した父を想って、感情的に大股で近づいた。昭一はさらに殴ろうと腕を振り上げたが、糸が大粒の涙を流しているのを見て思いとどまった。
糸「あたしさ……」
N:生きたいのか死にたいのか分からないように、小さな瞳が泳ぐ。糸「家から逃げてきたんだ。十三歳になったら、知らない男に抱かれなきゃならなくって」
N:真夏にもかかわらず、身を縮めて震え出す。昭一は木賃宿で聞いた売春婦の声を思い出した。
糸「あたしの姉やはさ、母さんにヤク打たれて早くに商売はじめてさ。一晩でも二晩でも眠りこけて、ぼ~としてるかと思うといきなりはしゃぎだして、涎たらした男に閉じ込められるんだ……」
N:しゃべりながら身体を痙攣させはじめる糸。エヘヘ、エヘヘとヒステリックに笑い出す。昭一は慌てて糸を抱き寄せた。
昭一「やめるんだ、糸! それ以上は言っちゃならねえ!」
糸「盗むか! やるか! だますかしないと生きられない! そうじゃなかったら死んじまうんだっ!」
昭一「お願いだ、もうよしてくれ!」
N:昭一は、必死に頬をはたいて正気に戻そうとした。糸はゲホゲホとせき込み、食べたものを吐きだした。それが幸いして、糸のヒステリーが収まった。
昭一「もう大丈夫だ。もうお前は、怖がらなくていいんだ」
【Cパート】
〇朝九時。木賃宿や市場が雑然と集まる地区。
[音:大勢の人が走る]
N:糸を匿って大観園の出口を目指す昭一。見た目は年の離れた兄妹である。糸は物盗りの前科があるので、昭一が部屋に残っていた麻布で顔をしっかり隠し、目だけ出している。浮浪者の行き交う界隈で、アヘン密売の少女が粉の入った小袋を三十過ぎの男に渡しているのが見えた。小袋と同時に軍票を交換したようだ。
昭一「あれは氷山の一角、か」
N:昭一はズボンの裾をつかんで離さない糸を横目で見た。糸は「出られるのか?」と瞳で訴えてくる。昭一は「心配するな」と目で返事をした。
老韓「そこのあんちゃんさあ?」
N:博奕の盛り場から、背の高い六十歳ほどの男が声をかけた。彼の名は老韓(ラオハン)。このあたりの博奕連中の頭と目される男だった。老韓は、壺のなかに賽をカラコロ転がしながら二人の前に座った。賭けをしよう、と誘っているのである。
昭一「いいや、賭けている暇はない」
老韓「ああ?」
N:ドスの効いた声を上げる老韓。分厚い筋肉質な手を二回たたくと、二人を取り囲むように博奕打ちの一党が現れた。
昭一「なに……!?」
老韓「俺の眼をごまかせると思ったか。後ろのそいつは、可愛い弟分の李から鍋蓋を盗んだガキ……日本鬼子だろう?」
N:ハルピンの時が止まったように空の雲が制止する。
一陣の風が野花を揺らした瞬間に、怒号が響いた。
老韓「かかれ!」
N:殴りかかる男たち。手には棍棒、斧、出刃、石礫などをもっている。
糸「昭一!」
N:糸は悲痛な声を上げた。しかし、昭一は腕を大きく振り上げて、
昭一「壱百円!」
N:と叫ぶと、男たちの動きが止まった。老韓の眉尻がくいっと上がる。
昭一「俺に勝てたら、壱百円やると約束する」
N:男たちは法外な掛金設定によだれを垂らした。老韓は不敵に、ひどく黄ばんだ歯を見せた。
老韓「おもしろい。だが、貧乏面した奴と出来ない賭けはしない主義でね。大見栄を切ったことだけは褒めてやる。だから……」
N:老韓は糸の足元に痰をペッと吐いた。
老韓「賭けに勝ったら、その女児をもらう……お前は八つ裂きだ」
N:ウオオオオ! と地鳴りのごとき雄叫びを上げる男たち。昭一は汗を一滴流すと、諦めたように糸に言った。
昭一「あっさりバレていたらしい。すまない」
N:糸は恐怖のあまり震えた。
糸「昭一、あんたは逃げて。あたしが捕まればあんたは助かる」
N:昭一はそれを無視して、老韓と対峙するように座った。糸はその様子を立ち竦んで傍観するしかなかった。
老韓「いい度胸だ」
N:老韓は壺をカラコロと振り回し、それを昭一にも振らせた。
老韓「そこのガキ。お前もだ」
N:糸は極度に緊張した手つきで壺を振った。振り終わった壺を、博奕打ちのひとりの男に持たせる。その男は即席の盤上に勢いよくひっくり返した。
老韓「いいか。壺には一、二、三、四の賽が一個ずつ、それぞれの賽には一面だけ数字が刻まれている。壺を上げたとき、表に出た数字の和で賭ける。単純明快だ」
昭一「もし、どちらも数字の和を当てられなければ?」
老韓「むろん引き分けだ。勝負がつくまで続ける」
昭一「わかった」
N:昭一・老韓・糸・そして他の男たちの視線が壺をもつ男に集中した。昭一は、
昭一「三だ」
N:と言い、対して老韓は、
老韓「六」
N:と答えた。蓋を開けると、ぴったり「二・四」だけ表に出ていた。その和は六である。ウオオオオ! と雄叫びが上がった。老韓の勝ち、昭一の負けだ。糸は失望に座り込んでしまった。これで自分と昭一の人生は終わったのだ。
老韓「約束どおり死ね――!」
N:そのとき、
[音:サイコロを投げる]
老韓「うぐっ!」
N:気づけば老韓の眉間に賽が深く突き刺さっていた。血潮がたらたら滴り、目が血走っている。昭一が至近距離で賽を弾いたのだった。
昭一「自業自得だ。賽の中に鉛を埋めて、二と四が表に、一と三が裏に出るよう仕組んでたんだろ? 賽を振ったとき、やたらに重たいと思ってたんだ」
老韓「き、貴様あ!」
N:老韓ははりついた賽を剥がし、掴みかかった。しかし時すでに遅く、出血多量で失神した。
昭一「糸!」
N:糸と昭一は、頭を倒された一味たちの混乱に乗じてその場を抜け出した。糸は辛うじて走り出せたが、糸が振り返ると、市場の奥で昭一が男たちに袋叩きにされていた。
糸「昭一!」
昭一「お前は逃げろ! お前には別の世界が待ってる!」
N:その瞬間も昭一は殴り飛ばされた。糸は涙をこぼし、後ろ髪を引かれながら大観園の出口めがけて駆け出した。
【Dパート】
[文字アニメ:出口]
〇大観園の出口、階段下。午前十時。
N:大観園の出口には複数の裸の死体が散乱しており、死臭と生ゴミ臭の混じった空気が淀んでいる。息を切らせて走る糸を、人々は好奇の目で眺めた。糸は泣き出したいがその余裕すらなく、必死に走るうちに涙が乾いてきた。
糸「あそこが出口だ!」
N:糸はほうぼうの体で出口に踏みこもうとした。しかし、その前方を大男が立ち塞がる。
亭主「探したぞ。青梅(チンメイ)」
N:糸を中国名で呼ぶ男は、彼女が逃亡した売春宿を経営する亭主だった。
糸「お、お父さ……」
N:宿では彼を「お父様」と呼ばなければいけない掟があった。亭主は自分の妻や娘(糸がいう「姉や」)に身体を売らせ、その金で関東軍からアヘンを買っていた。糸は悔しさに下唇を強く噛んだ。言葉がうまいこと出てこない。
亭主「どうした、青梅。お家に帰ろう」
N:糸の息が上がり、痩せた肩が激しく上下する。
糸M:ここで逃げれば殺されるかもしれない。いや、殺されるより恐ろしい見せしめを人前で晒される危険だってありえる。亭主は女を商売道具としか思っていない。
糸「わたしは……」
N:昭一の顔が次々と浮かび上がる。取り押さえられたときの熱い体温、ナマズを分けてくれた諦め顔、本気で叱ってくれた怒声、「怖がらなくていい」と抱きしめてくれた優しい腕の感触。
亭主「どうした、青……」
糸「その名で呼ぶな! わたしは糸だ!」
N:叫ぶないなや、亭主の股間を蹴り上げた。
だが、圧倒的な筋力の差にすぐ地面に組み伏せられた。怒り狂った亭主は糸の背中を骨が折れるくらい圧迫し、痛めつける。
亭主「お前は聞き分けの良い娘だと思っていたのに、残念だ」
N:糸は「離せ」と言いたいのに、あまりの痛みで声が出ない。
亭主「ひとまず大人しくなってもらおう」
N:懐からアヘン入りの注射針を出し、糸の腕に刺そうとした、そのとき。
[音:拳銃の音]
N:糸は何が起きたか理解できなかった。顔に生温かい血液がかかり身体を起こすと、顔面を銃弾で砕かれた亭主の姿があった。そのままぐったりと斃れ、絶命した。
驚いて振りむくと、満身創痍で銃口を向ける昭一の立ち姿があった。
糸「昭一!」
N:駆け寄ろうとする糸を、昭一は声を荒げて制止した。
昭一「お前は行け! そして生きろ! 何があっても……」
N:しかし、博奕打ちたちに受けた傷がひどく、そこで力尽きて斃れた。
糸「昭一……」
N:糸はこれまでの人生で一番の大粒の涙をこぼした。悔しさと虚しさ、悲しみや怒りとともに、彼の想いを無駄にはできないという使命感が燃え上がった。脇に転がった亭主の死体を乗り越えて、糸は大観園の出口を抜け出した。
出口の向こうには、土臭い煙のなかを眩しい陽光が輝いていた。
N:この物語は史実を基にしたフィクションです。皆さんが少しでも大観園という存在を知っていただけたら幸いです。繰り返しになりますが、大観園ができた背景には、生活難に陥った人々がこの地に流れ込んできた社会的な要因を抜きにはできません。そして、信じられないような環境のなかでさえ、たしかに生きていた人々がいたことを忘れてはいけないと思っています。私は、昭一の冥福と、糸の将来を祈って、朗読を終わりたいと思います。
(終)
参考:
・佐藤慎一郎『大観園の解剖――漢民族社会実態調査――』
(原書房、初版1941年・復刻1982年)
・中生勝美「紹介:佐藤慎一郎著『大観園の解剖――漢民族社会実態調査――』」(『アジア経済』43巻10号p95、2002年)
・P14 参考文献
・拓殖大学学友会「馬賊の歌」
(https://takushoku-alumni.jp/kasyu/bazokunouta)
注)この台本は、令和5年11月15日(水)に北陸満友会の語り部の会で発表した内容を一部改変したものです。
北陸満友会は、北陸地域を中心とした、満州引揚げに関する記憶と記録の継承を目的とする有志の集いです。今年で創立10周年を迎えました。
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