夏炉冬扇 #2
どちらかと言えば私は上がり症だ。二十三歳の現在でも、人前で話すことには未だに抵抗があるし、初対面の人と接する合間には、どうすれば相手を傷つけないで済むかと考えて気疲れしてしまう。親友と呼べる相手となら、一歩二歩の距離を縮めて話せるのだが…。そして、何かにつけて心拍数の高まる性格の私が、最も神経を使ってしまうことの一つが、自作の原稿を誰かに読んでもらうときである。
小学校の頃から、誰かに自分の文章を読んでもらうのが苦手だった。まず、読んでもらっている間にどこへ視線を持っていけばよいか解らない。じっと相手を見つめるのは変だろうし、かと言ってまったく視線を逸らすのも失礼な気がする。あの一節に不適切な表現はなかったか、専門用語を使ってしまったパートを理解してくれるだろうか。そして何より、私が意図するものが伝わる文章になっているかどうか、などなど。要するに、相手がどのように感じているかが気になってしまって、不安と期待とが錯綜した時間を余儀なくされてしまうのだ。
印刷したばかりの原稿を、胡坐を組んだ兄が読み進めている。兄は速読の人。左右の眼が上下ではなく、ほぼ水平に動いてページを嘗めていく。速度の割に内容を理解しているのも驚きだ。一ページに一分間かかる妹にとってみれば、たとえ色々と文句をつけたくなる兄であっても、この能力ばかりは羨ましい。
戸籍上は彼が「兄」で私が「妹」なのであるが、年功序列に無頓着な兄は、ときどきふざけて私を「姉ちゃん」と呼ぶ。さっき部屋に入ってきたときもそうだった。理由を聞くと、英語ならどちらでも sister だろうとか、双子だから生まれた時間差なんて大したことないのだから、という言い訳が返ってくるが、実際は私にお願い事をしたいときか、やましい行為があって謝罪したい場合かのいずれかである。今回は、おそらく私の小説を読ませてほしいとお願いするため、私を持ち上げようと「姉ちゃん」と言ったのだと思う。
普通に「小説読ませて」で事足りるのだが、なぜか兄は物書きをする私を崇敬している節があって(自意識過剰かもしれないが)、兄のほうも、私を「姉ちゃん」呼びにして茶化すことで、愛情表現をはぐらかしているのかもしれない。それが妹の私にとっては、ちょっとこそばゆい。
手持ち無沙汰の私は、机のうえに放り出したワイヤレスイヤホンを乾いた指で弄って、不安な時間を紛らわすことにした。電源を入れたり切ったりを繰り返すうちに、ふと兄が顔を上げた。私の血圧は急上昇を迎える。
「うん」
兄はじっと私を直視している。一体どんな感想が飛んでくるのか。ごくりと生唾を呑み込んだ私は、次の言葉を待った。
「冬扇らしい文章だ」
全身の筋肉が溶けてしまうのではないか、というほど椅子のうえで脱力した。「冬扇らしい」は、兄のオーケーの返答である。兄のなかで合格ラインだと思ってくれたら、このように話し始めてくれるのだ。ちなみに、不合格だと判定されると、「冬扇らしくない」と突き放されて終わる。
「そ、そう? なら一安心ね。ちなみに、どんな感想をもった?」
脂汗で一杯の手を悟られぬよう、固く握りしめた拳をポケットに隠して聞き返した。姿勢をシャンと伸ばして、まっすぐに床の兄を見据える。兄は原稿を顔の前で掲げながら答えた。
「冬扇の雨フェチがよく表現できてる」
今度は椅子のうえでずっこける番だった。
「ちょっ! 期待させといてからの感想が雨フェチ?!」
兄は意地悪とも神妙とも取れる表情で切り返してくる。
「至極まっとうだろ。雨の話題一つでこんなに行数を割けるなんてな。いやあ、流石さすが」
完全に馬鹿にした態度に、ムッとした私は遠慮なく兄の手から原稿をひったくる。勢い余って、兄の手指がシュッと紙で切り裂けたのが見えたけど、気にしないでおこう。
「んぐっ! ゆ、指がっ…!」
「正義の裁きよ」
期待した私が愚かだった。出血した指を抑えて、ベッド脇で悶える兄をよそに、私は原稿をさっさと机の引き出しにしまう。
そりゃ確かに私は雨が好きですよ。雨は止んでも雨への愛は止みませんとも。ですけどね、言い方とかデリカシーとかいうものがこの兄には欠如していると思う。昔からの性分なのだ。ふふん、嘲笑いたければ好きにしなさい。近々、あなたを小説に登場させて、ラストシーンで断崖絶壁に蹴落としてあげるから。
すっかり機嫌を損ねた私だったが、兄の次の言葉で呼吸が止まった。
「最後まで聴け、最後まで! 雨フェチ効果で、冬扇の小説のいいところもちゃんと感じているんだからな」
「雨フェチ効果って何よ…」
ぶつくさ言っている私は、しかし同時に「いいところ」が何か訊きたくて胸の辺りがムズムズしているのを感じた。先を促すように、わざとじっとりした眼つきで兄を睨む。兄は不機嫌そうな顔で、しかし率直に告げてくれた。
「前も話したけど、冬扇の小説はつづきを読みたくなるんだ。雨の特徴を丁寧に描写してその愛着を語っているから、どうしてそんなに好きなんだろうかって読んだ人は思う。友達である郁美との関係も気になってくるしな」
まったく、この双生児は…。
こんなとき、二卵性双生児という不思議な関係を意識せずにいられない。わたしが、いや、「徳田冬扇」が用意した「作為」を、兄は漏れなく把握していた。
もちろん、素人同然の自分が充分うまく書けているとは思わない。けれど、どんな作品を書くにせよ、私が力を入れているのは「つづきが気になる話」を書くことなのだ。日常生活が舞台の話でも、派手なお祭りに起こる事件を描いた話でも、読んだ人がその世界に興味をもってほしい。そのために、読者の興味を引くであろう暗示的な伏線を見える位置において、中身を書き進めている。今回の場合は、「雨が好きな少女」と「親友との関係」をその核とするつもりだった。
「そ、そう。わりと伝わっているのなら、まあいいわ」
怒りが爆発したのをなかったことにして、大人びた態度で接した。兄は、しかし念を押すように尋ねてきた。
「でさ、気になっているのは、ちゃんと落としどころを考えて作っているんだろうな?」
「も、もちろんよ、ふふ…」
いかん、このまま会話をしていれば、実はラストシーンまで考えずに作品を書いていることが露見してしまう。懐疑の念を向ける兄に、私は虚勢を張って言った。
「大丈夫、大丈夫! 前の『パッチワーク』みたいな失敗はしないようにするから」
「そうか? ならいいけどな」
『パッチワーク』とは、先月に書き下ろした私の短編小説である。日常の風景を幾つも並べて描写して、ひとつの「画」となるように作品を仕上げるはずだったもの。しかし、一つひとつのシーンの描写にこだわりすぎてしまい、バラバラにピースをばらまいただけで終わってしまった。悔しいけど、駄作。
「まあ、お前には仕事もあるんだし、気長につづきを待っているとするよ」
兄は再び、ごろんと私のベッドに寝転がった。
いまなら、素直に「ありがとう」と言えるだろうか。せっかく小説を読んでもらえて、適切な感想まで聴けて、本当は嬉しいはずなのだ。でも、やっぱり伝えられない。湧き上がってくるプライドとフラストレーションが、「ありがとう」の言葉を阻害してしまう。兄に雨フェチだとか言われて怒っているからではない。この感情は、いいラストシーンを書きたいのに、それを思いつけない私の限界を、見事に指摘されたからだろう。むしゃくしゃした私は、ベッドから兄の足を引いて引き摺り下ろすと、ぐいっとオレンジ色のドアを開けた。
「さあ、乙女のベッドに乗らないで! つづきを執筆するから、しばらく入らないで!」
あきれ顔の兄を押し出して、バタンとドアを閉める。追い出された兄はあっけにとられているようだけど、面倒な喧嘩は甲斐なしとしたのか、それ以上は追及せず足音が遠のいていった。ふうと息が抜けた私は、ベッドに飛び込んで顔を枕に沈めた。心なしか、普段よりも枕が固い。
まあ、大丈夫だろう。「ありがとう」の言葉に代えて、兄のズボンのポケットに絆創膏とソフトキャンディを突っ込んどいたから。
窓の外では、小説と同じように優しい雨が落ちている。ぽつり、ぽつりと天から剥がれ落ちるような滴の儚さが好き。トタン屋根に溜まった幾らかの水が、樋を伝って玄関先のアスファルトに流れる音も聞こえる。
「ラストシーン、天から降ってこないかな」
私はワイヤレスイヤホンを両耳に挿して、音楽の世界に身を埋めることに決めた。