三. にんげんとして生きる

文章を売ってお金にする?

そもそも、せっかく文章を書くなら、売ってお金になったらいいじゃん、という自分の考え方が解せなくなってきた。

なんでそうやってすぐにお金になるかどうかの話になるんだろうか。いつからぼくのあたまはそんなふうになってしまったんだろうか。

「文章を売るようになったら、そのうちお金が出ないと文章を書かないようになっちゃうんじゃないの」
妻は半分冗談、半分本気な顔で言ってきた。

「そんなことはないよ」と言いつつも、ぼくのあたまの中にはすでに、文章を書いて売ってお金にするという構図がたしかに出来上がってしまっていた。

本当にそうなってしまうかもしれない。冗談じゃない。


とは言え、正直、少しは文章を書くことが仕事になったらいいなという気持ちはあった。

仕事になるというのは、つまり働いてお金を稼ぐということだ。決して高いとは言い難いサラリーマン給料で、ついこのあいだ子どもも産まれた。食うに困らないだけは稼がなければ、という現実が亡霊のようにつきまとってくる。

だけどいつからそんなふうに、働くこととお金を稼ぐことがまるで同じことの言い換えであるかのように、ぼくの中で結びついてしまったのだろうか。

決して、働くこととお金を稼ぐことは同じではないはずだ。


にんげんとして生きるために働く

例えばモトムさんは生涯に渡って賃労働をしたことがない。

労働市場から排除され、障害者支援制度も何も整備されていなかった時代を過ごしてきたモトムさんにとって、それは選ばなかったというのではなくて、選べなかったということでもあるのだが、いずれにせよ賃労働を一度もしたことがないモトムさんの人生は、現代社会においては、おそらく、とても珍しい。

現在、重度訪問介護をはじめ各種支援制度で地域での生活を成り立たせているモトムさんは、自分のことを公務員だと笑いながら話すこともある。税金で生計が立っているからである。

たしかにそれはとても面白い見方だなあと思う。

障害者運動に携わり、生きづらい社会と地域をすこしずつほぐしてきたという意味では、公の仕事をしてきたとも言えるわけで、制度も何もないところから声を上げ、支援・助成制度をつくり上げてきた、つまり給料・お金を確保してきたというのは、とてもアウトロー的でかっこいい公務員だなあと思う。

しかし、それでも制度ができる以前は支援も助成も何もなかった。収入と言えば、とてもではないが生活していけない額の障害年金だけだった。

ボランティアで介助者を募り、ひとつひとつハードルを乗り越えて、地域での生活を築き上げてきた。

自立生活を実践したり、障害者の演劇をやったり、八百屋の配達や店番をしたり、ノンステップバス導入に奔走したり、いろいろな活動をしてきたのは、決してお金が出るからというわけではなかった。

お金とか給料以前の問題として、そうしなければ社会の中で、にんげんとしていきることができなかったのだった。

つまり残された選択肢は、施設に収容されるか、家族の庇護のもとで家に閉じ込められるか、いずれかに限られた。


にんげんとして生きることができない絶望

たとえば施設に入ってしまえば、ただ食べて寝るだけ。自分では動くこともできないから、何もやることなく寝転んだまま一日を過ごす。朝起きる時間も、食事の時間も、寝る時間も決められていて、外出も滅多にできない。家族や友人との面会すら制限がある。

20代の頃、そんな施設に入っていたときのことを、モトムさんは次のように回想する。

「俺、呆然として、ここで俺の人生終わるのかなと思い始めたわけ。若い仲間たちからも『もう死ぬまでここにいることになるんだよー』って言われてしまって、『そうかー、俺ここで人生終わるのかー。俺の人生ってこんなもんだったのかな』と思い始めて。ここで死ぬかという、そういう絶望感とかさ」 [i]

その後、家族の援助があり、モトムさんは施設から抜け出すことができた.


けれどもモトムさんが施設で出会った人たちの中には、誰ともつながりがなく、施設にとどまらざるを得ない人も少なくなかった。

モトムさんと同じように施設に絶望し、しかし施設から出ることもできず、二度自殺を試みたものの、思うように動かないからだで自殺することすらできなかった小林成壮さんも、そのひとりだった。

モトムさんは施設を出た後も、小林さんと連絡を取り続けた。障害者運動の団体と小林さんをつなげ、小林さんが施設を出て地域で暮らせる環境を整えた。介助者を探しながら、アパート暮らしを始めた小林さんは、障害者運動にものめり込んでいった。


14年後、モトムさんは小林さんと再会する。

小林さんは地域での生活を始めた後、酒の飲み過ぎでからだを壊し、寝たきりになってしまっていた。モトムさんが顔を見せに行ったとき、小林さんは昏睡のような状態で眠りっぱなしだった。が、途中でふっと目を覚ました。

「途中でふっと目を覚ましてね、俺の顔を見てね、『あぁ、来たのか』みたいな感じで、ふっと言い出した言葉が、『俺は、あんたのおかげで、青春を味わえたよ』って言ったとこで、また眠り込んでしまったのね」[i]

その数か月後、小林さんは、肺炎をこじらせて亡くなった。

「なんでわざわざね、『あんたのおかげで青春を味わえた』なんてさ。健常者側から言えばさ、なにそれって話になるでしょ。だってわざわざ言う人っていないじゃないですか。いますか?ね」

モトムさんは問いかけるように続ける。

 「そのまさに、遺言みたいに俺にぶつけてきたことにさ、彼も多分そう(遺言のつもり)だったと思う。施設を出て、初めて女の子と出会ったりしてったらしいのね。酒も飲み、病気もし、活動(障害者運動)もしたということで、初めて青春みたいなものを味わえた的な想いを込めて、俺に言ったんだと思うのね。

 その『あんたのおかげで青春を味わえたよ』って言葉が、俺の背中にずしーんと覆い被さってきてさ、その後の活動の原動力になったかなと、今でも思ってる」[i]

にんげんとしていきることができないという絶望と、にんげんとしていきることができるよろこび。

「あんたのおかげで青春を味わえたよ」という小林さんの遺言のような言葉は、その両者を端的に表していた。


絶望的な現実を切り拓く

「あんたのおかげで青春を味わえたよ」という言葉が、その後の活動の原動力になった、とモトムさんは言う。

活動とは、繰り返しになるが、自立生活を実践したり、障害者の演劇をやったり、八百屋の配達や店番をしたり、ノンステップバス導入の運動をしたり、ということを指している。

お金を稼げるわけではないが、モトムさんにとって生きていくために必要なことであったし、今もあり続けている。

つまりこれらの活動は、にんげんとしていきることができない、という絶望的な現実を、にんげんとしていきることができるように変えていくために、必要なことなのであった。


モトムさんはこのような活動しかしてこなかった。

もちろんプライベートで家族友人と遊んだり、飲み食いしたり、恋愛したり、旅行に行ったりすることはあったけれど、活動以外に、生活するためにお金を稼ぐ、お金を稼ぐために働く、ということはなかった。

金銭を媒介する形ではなく、これらの活動はもっと直接的に、自分が生きたいように地域で生きるために、つまりにんげんとしていきるために必要なことであった。

だから賃労働ではないけれど、モトムさんが「活動」と呼ぶところを、モトムさんにとっての「仕事」と置き換えて理解しても差し支えないだろうと思う。モトムさんが自らを公務員に例えたのも、そういうことなのだ。


そうだ。
きっと、生活をするということにおいて、お金を稼いで生きるという水準よりも手前に、にんげんとしていきるという水準がある。そこが満たされていなければ、お金を稼ぐどうこうの話ではないのだ。

そして、お金を稼ぐために「働く」という水準の手前に、にんげんとしていきるために「活動する(働く)」という水準がある。

お金は稼げなくとも、にんげんとしていきるという水準を満たそうと「活動する(働く)」ことは可能なのだ。

いや、むしろにんげんとしていきるという水準は、金銭を媒介すると難しくなるという側面もあるかもしれない。いつの間にか目的と手段が入れ代わってしまう。そして手段であったはずの、より抽象的で汎用性の高いお金が目的にすり替わっているということは往々にしてありうる。

「文章を売るようになったら、そのうちお金が出ないと文章を書かないようになっちゃうんじゃないの」と妻が言ったのも同じことだ。

文章が書きたくて書いていたはずなのに、いつの間にかお金のために文章を書くようになってしまう。

いずれにしても、にんげんとしていきるという水準を満たすための活動に、お金を稼げるかどうかは関係ない。

逆に言えば、お金を稼ぐために働くということのみによって、にんげんとしていきるという水準を満たすことはできないということでもある。


ここを間違えてはならないんだ。

「そうだよね、お金が出ないと文章を書かないなんて、全然自由じゃないよね」とぼくは苦笑いする。

ようやくわかったか、と言いたげに妻は笑った。


というわけで、自分の書きたいことを、書きたいように、自由に書く。
言いたいことを、言いたいように、自由に言う。
表現したいことを、表現したいように、自由に表現する。

さあ、にんげんとして、いきよう。


そういえば最近、妻も賃労働をやめたんだった。



[i] 岩下紘己,2020年,『ひらけ!モトム』,出版舎ジグ

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