
七.スティックの向こう側
「見たことあるか?こんな大きいんだぞ!」
齧ったスモークサーモン一本を右手に持ちながら、両手を目いっぱい広げてジョージが説明してくれる。村に訪れた7月下旬、すでにキングサーモンの遡上は終わっていた。もう少し早く来れば間に合ったのに。悔しがりながら、ぼくはもらったスモークサーモンを頬張った。
長さ10センチ、幅1.5センチほどのスティックのような形のそれは、すっかり干し上げられて水分がなく、プラスチックのように硬い。身の部分は、ルビーのように赤味がかった透明感があり、皮は銀色に輝いている。奥歯で皮ごと噛みちぎり、唾液で馴染ませながら噛みしめる。噛めば噛むほど味が出てくるので、ぼくはガムのようにずっと口の中に含んで噛んでいた。
「大丈夫!8月中旬くらいからシルバーサーモンが遡上するよ!キングサーモンよりは小さいし脂も少ないけど、その分味がいいのよ。私はシルバーのほうが好きよ」
キティに励まされて、文字通り首を長くしながらぼくはシルバーサーモンの遡上を待っていた。
ヌラト村に来て———君と離れて、一ヶ月が経とうとしていた。
その日は突然にやってきた。
「今夜、行こうか!寒いだろうからちゃんと着込むんだよ」とリックは宣言した。
アリーの泥まみれになった荷物をすべて協会に運んだその日、夕飯を食べ終わると、漁に出ることになった。
すでに周りの村の人たちは忙しくモーターボートを走らせ、スモークハウスで働いていたが、リックは「まだだなあ」と葉巻をふかす毎日だったので、あまりの急な展開に、待ちに待ったはずのぼくも拍子抜けしてしまった。
リックの気まぐれなのだろうか、何なのだろうか。それにしても、なんでよりによってようやく引っ越しが終わった今日という日の夜なのだろうか。一体寝るのは何時になるのか。
けれども思い立ったら一刻の猶予もない。リックやジョージの辞書に「予定」という文字はないのではないか、と何度も思ったものだった。
でもそんな生活に魅力を感じたりもした。
1週間後、1か月後、1年後まで予定が決まっているなんて、息苦しいじゃないか。明日のことだって、いや、今日のことだって本当のところ誰もわからないんだから。いま心臓が動いているからといって、一秒後にまだ心臓が動いている保証なんてどこにもないじゃないかって。ほんとうにそう思う。
しっかりと着込み、ボートの置いてある小さな船着き場へと向かう。船着き場と言っても、村の外れをユーコン川へと流れ込む小川の岸辺で、水際に生えた木にボートをロープで固定するだけの場所である。
外はまだ明るい。真夏のこの季節、太陽は地平線を滑るようにかすめ、夜中の数時間を除いてほとんど沈まない。平坦な森の向こう側で、青白く太陽が輝き、辺りを藍色に染めている。
ひんやりとした夜風が川面を通り抜ける中、モーターボートを10分ほど上流に走らせたところに、リックたちの漁のポイントがあった。ちょうど川が右に大きく曲がる手前、カーブの内側の水域である。ここは流木などの漂流物が少なく、ネットが引っ掛かりづらいのだという。
30メートルほどの横長のネットを直線に、川の流れに対して垂直に下ろすと、モーターを切り15分ほど川の流れに任せる。遡上してくるサケがそのままネットの網目に頭から突っ込んで引っ掛かる仕掛けである。
サケが網目に突っ込むのを待っているあいだ、保温ポッドに淹れてきたコーヒーを飲み、葉巻きをふかし、ビスケットやチョコレート、自家製のスモークサーモンやムースジャーキーをつまむのも、きっと一夏の楽しみのひとつなのだろう。
「知ってるかい、盲目の長老の話。その長老は、目が見えないのに、真冬の凍えるような寒さの中、隣村からヌラトまでスノーシューで歩いていったっていうんだ。どうやってそんなことができるのか。吹く風の向きを感じていたのか、それとも何なのだろうか…」
網を引き揚げるまでのあいだ、よくジョージが話を聞かせてくれたものだった。
だけど話を聞いているどころじゃない。
容赦なく、小蝿のような小さな無数の羽虫が、どこからともなく湧き出て纏わりついてくる。しかもなぜか顔の穴という穴にたかってくる。
ぼくは目をつぶりながら鼻の穴を右手でつまみ、左手で顔の周りを手当たり次第に振り払う。アリーは顔全体を手ぬぐいのようなもので覆っている。虫嫌いの君ならきっと発狂するに違いない。
それを見て、まだまだだな、慣れれば屁のようなものさ、とでも言うようにリックとジョージはにやにや笑う。何をどうすれば慣れるものなのか、さっぱり見当もつかないが、ふたりは振り払う様子すらない。
ひたすら無駄な抵抗を続けるぼくらに呆れて、「噛みはしないんだから大丈夫だ、気にするな」とジョージは笑いながら言った。
「それよりもな、若い頃だったなあ。友達と3人で狩りに行ったんだ。そしたら途中でボートが浅い川底にはまったり、ガスが無くなって動かなくなったり、道に迷ったり、もうめちゃくちゃだったんだよ。挙句の果てには、ブラックベアだ!と撃ったのは、誰かが残した毛皮だったんだよ。もう嫌になるだろ。帰ってきたときには腹が減って今にも倒れそうだったさ」
ジョージは失敗談に事欠かなかった。
「ジョージはクレイジーだよ」
リックが笑いながら目を細める。
「クレイジー」つまり「おかしなやつ」というのは、半分茶化しているが、半分褒め言葉でもある。クレイジーじゃなきゃここアラスカはタフにやっていけない。
そういえば、と思い出したように今度はリックが話を続ける。
「昔はガスが無くなって動かなくなるようなモーターなんかなかったもんな。みんなたくさん犬飼ってたんだよ。僕の家にも28匹も犬がいたよ。今は1匹だけどね。冬はもちろん橇を引かせるんだけどさ、今みたいにスノーモービルはないしさ。夏でも犬に岸辺を走らせて、ボートを引っ張らせたりしたもんだよ」
ぶーん、ぶーん。
無数の羽虫がいつまでもどこまでも纏わりついてくる。
「もう気がおかしくなりそうだよ!」
アリーが叫ぶ。ぼくらは発狂寸前だった。
「おいっ!見てみろ!」
リックの声に振り返ると、ネットにかかったサケが、逃れようと暴れて跳ねている。
何尾掛かってるんだろうか。一瞬で纏わりつく羽虫も忘れて、期待に胸を膨らませながら、みんなで飛び跳ねているサケの数を数える。だけど飛び跳ねてはまた水の中に戻ってしまうから、今飛び跳ねているのがさっき飛び跳ねていたのと同じサケかもしれない。ちゃんと数えるのは無理だってみんなわかってるんだけど、それでも数えたくなっちゃうんだよね。
ようやく時間が来た。
リックが再びモーターのエンジンをかける合図とともに、アリーとジョージが立ち上がり、息を合わせてネットを引き上げていく。網の目に太い胴体の引っ掛かったサケが、次々と狭いボートの上に上がってくる。
ジョージとアリーは手早く網から外して、船の上の大きなタブの中に放り込んでいく。水を求めてのたうち回るサケの上に、次から次へとサケが積み重なっていく。
タブの中でサケはのた打ち回る。今はもう引き上げられてしまった川を求めて、水を求めて、暴れまわる。大きいものだと君の足くらいの長さと太さがあったんじゃないかな。最後の命の一滴が果てるまで、胴体をしならせ、尾びれで底を叩き付け、飛び跳ねる。やがて力尽き、動かなくなり、ぼくを睨みつけるようにまどろんでいく。
「ねえ!これなに?」とぼくは尋ねた。
投げ込まれたサケの胴体に、引っ掻かれたような5本の傷跡が残っていた。
「クマだな。こいつ、クマの手からも逃れてここまで辿り着いたんだな。すごいやつだぜ」
網を引く手を止めて、ジョージが感心していた。ぼくはそのサケの向こう側に広がるドラマに、想像を巡らせていた。
一度の網の引き上げで10匹から20匹ほどが獲れる。これを5回から6回ほど繰り返す。この日の成果は52匹だったが、多い日は100匹以上獲れることもあった。
ときには、漁に行けない村の高齢のおばあちゃんから獲ってきてほしいと頼まれることもあれば、村から離れてぽつんと暮らす夫婦のもとへ届けたり、近隣の村グリーナにある高齢者施設に百匹を超えるサケを届けたこともあった。
ボートを走らせるだけだから、とリックはガス代しかもらわなかった。こういう「善い行い」の積み重ねが、「幸運を呼ぶんだよ」と言っていた。
「幸運を呼ぶ」かあ。
その意味をぼくは後で知ることになるんだけど、このときは何を言っているのかチンプンカンプンだった。
村に戻ると、タブを車の荷台に積み込み、スモークハウスへと向かう。サケで一杯になったタブは、全身が持っていかれそうなほど、ずっしりと重い。下手したら細身の君なんかよりずっと重いんじゃないかな。
リックが運転席に、横の助手席にアリーが乗り込む。ぼくとジョージは荷台の縁に腰掛けて、でこぼこ道で揺れる車から振り落とされないように、タブの持ち手に両手で摑まりながら、流れゆく薄暗い景色の影をぼーっと眺める。
ぽつ、ぽつ、ぽつ…、ざーっ———。
シャワーのような大雨が、突然降り注いでくる。ぼくもジョージも、着ていた雨具のフードを慌てて被るが、風に煽られた雨粒が顔面を容赦なく打ち付けてくる。顎を引いて目を細め、滑る手を握りなおす。
「ハッハッハッハー」
突然、雨音に負けない大きな声で笑い出して、ジョージがこっちを覗いてきた。
「気持ちのいい雨だな!今日はシャワー浴びなくてよさそうだ!」
「ほんとだね!」
ぼくは笑って答えた。
「最高だぜ!」
まるで少年のように、雨を楽しむジョージを見て、いつの間にかぼくまで楽しくなっていた。
そういえば、ぼくたちはいつから雨が嫌いになるんだろうか。小さい子どもは雨合羽を着て長靴を履いて、雨の中を喜んで遊びに行くのにね。
君も雨の日が好きだって言っていたけど、よくよく聞くと雨の日に家の中にいるのが好きなんだ、雨に濡れない場所から雨音を聞いて雨を眺めるのが好きなんだって言っていた。なるほどそういうこともあるのか、と思いつつ、それは雨が好きということではないよね、と言うと君はきっと「さすが先生は違うね」とか言っていじってくる。
だけどこのあいだ、玄関にタオルを用意して、濡れてもいい服に着替えて、サンダルを履いて、万全の準備をして、夕立の豪雨の中ではしゃぎまくった。実家のシャワーの水圧よりも強いとか言って笑ってたっけ。
ぼくらふたりとも、全身びしょ濡れで、両手を広げて上を向いて雨に打たれて、きゃあきゃあ叫んでた。あとのことも先のことも全部忘れて、ただ雨に打たれることが、どうしてあんなにも楽しいんだろうね。
「神に上から見下ろされる感じがするんだ」
いつの日か、ジョージが言っていた。だからジョージはいつだって雨が好きなのだという。特に激しい雷雨が大好きなのだという。
「一回だけ、本当に雷に打たれそうになったことがあるんだ。大雨と雷でほとんど何も聞こえなかったんだが、一緒にいた友人が自分に向かって『低くなれ!低くなれ!』ってジェスチャーで言っているのを即座に理解して、しゃがんだ瞬間、雷がかすめたんだ。『なんでわかったんだ!?』って後で聞いたら、おれの髪の毛が全部逆立ってたんだってさ。そのときおれ自身も、何か浮いているような奇妙な感覚だった。しばらくの間、大雨と雷の中、どろどろの地面にうつ伏せになって何時間も過ごしたよ」
スモークハウスにサケをすべて下し、雨に濡れて震えの止まらない胴体を摩りながら家に戻ると、ディーが熱々のムーススープとマカロニパスタを用意してくれていた。
「おお!マカロニか!」と嬉しそうなリックに、「たくさん働く日はいつもマカロニを作ってたのを思い出したんだよ」とディーは笑っていた。
「それからこれは12の豆のスープ(twelve been soup)よ!」
「え!?12個の豆のスープ!?」
ぼくはびっくりして叫んだ。どんな大きい豆なのか、あるいはどんな寂しいスープなのか。
「違うわよ!12種類の豆のスープよ!」
ぼくの驚いた顔を見て、あんたは何をあほなことを言ってるんだい、とディーは大笑いしながら言った。
君もよくそんな顔してぼくのことを笑うよね。やっぱりぼくはちょっとあほなんだろう。ちょっとどころではないか。
「なるほど!そういうことか!」
「12個の豆だけでどうやってスープ作るっていうのよ!」
ディーの大笑いが止まらない。その楽しさが、芯まで冷えたぼくの身体の内側に染み込んでいくのを感じて、顔がほころぶ。スプーンで一口すすると、楽しさに温もりが重なっていく。
「これ、とっても美味しいね。ありがとう」とぼくは言った。
「言葉にしなくても、行動で想いは伝わるのよ」
控えめなディーは一言、そう教えてくれた。
だからある晩、ディーが「ヒロ、今夜はあなたの大好物なハーフドライサーモンとフライブレッドを作ったのよ」と食べ終わったぼくにわざわざ伝えてくれたことが、とても印象に残っている。
あれはアラスカを発つ前々日のことだった。スモークハウスで作業していたぼくらを、「夕食を作ったから冷めないうちに来て食べなさい!」と呼びに来てくれたのだった。
ぼくは夕食を見てすぐに、「もうすぐいなくなるぼくのために、ぼくの好きな食事を作ってくれたんだ」とディーの心遣いに気付いた。だからそれをわざわざ伝えてくれたことが、余計に嬉しかったんだ。なぜって、きっとディーはうずうずしていて、言葉にしてぼくに伝えずにはいられなかったんだから。
翌朝、リックとアリーとボートの点検に行った。中に溜まった雨水を放っておくとボートが沈んでしまうこともある。ボートを走らせながら、後方部にある栓を開けて雨水を抜くという。
3人とも後部席にいたのが失敗だった。ボートを加速させた瞬間に前方部がぐわっと持ち上がって、そのまま転覆しそうになった。後ろが重たすぎたのだ。「前に行け!前!」とリックに怒鳴られて、傾いたボートの床をぼくは慌てて駆け上がった。危機一髪だった。
ボートを波止場に置いてからスモークハウスに向かうと、キティとルーシーが朝から、積みあがったサケを一尾ずつ捌いていた。部位と食べ方に応じて様々な形に切り分け、塩水につけて、長い棒にいくつもぶら下げて陰干しする。この日の夕方に再び漁に出て獲った42匹を合わせて90匹を、食事や休憩をはさみながら一匹ずつ手作業で捌いていく。頭を切り落として、腹を裂き、内臓を掻き出し、ヒレを落として、水で洗い、それから三枚におろす。基本的な手順は世界中どこも変わらないのかもしれない。
変わっていたのは、ウルという刃物。この刃物、円を三等分したほどの扇形をしていて、円弧全体が刃となっており、その中心角のあたりに持ち手が付けられている。刃の当て方によって前方向にも後ろ方向にも動かしやすく、体重を思いっきり乗せながら力を垂直に加えて太い骨を断ち切ることも簡単だった。
結局すべて終わったときには、夜中の12時半を回っていた。スモークハウスに取り付けられた裸電球と道路脇の街灯ひとつだけが、辛うじてぼんやりと周囲を照らしてくれている。外側には、黒よりも濃い、すべてを飲み込んでしまいそうな闇が広がっていた。
一日から二日ほど陰干しし、身の表面が乾燥して硬くなると、煙が充満したスモークハウスの中に入れて2週間ほど待つ。片腕ほどの長さに切り分けた丸太を、一晩にひとつ、熾火の状態で燃し、もくもくと立ちこもる煙で燻していく。丸太を確保するため、立ち枯れの大木を探してボートを走らせ、チェーンソーで切り倒すという仕事もあった。
スモークハウスの中は外見以上に高さがあり、できるだけ多くのサケが燻せるように、棒をかけるところが二段になっている。上の段に干すためには、ぼくの身長ほどはある一段目の高さまで梯子で登り、平均台のような長さと幅の板を伝って移動しながら、サケの切り身のかかった重く長い棒を傾けないように持ち上げ、運ばなければならない。
一番体の軽いキティが、いつもその役だった。四つん這いになり、白髪も混じる長髪を垂れ下げながら、小動物のように軽々と細い板の上を伝っていく。50歳を越えるキティが本当に小動物のように見えて、ぼくは腹を抱えて笑ってしまった。
「ヒロ!笑うなよ!」と言いながら、つられて笑ったキティは動けなくなって、細長い木の板の真ん中で必死にしがみついている。気を抜いたらそのまま地面まで真っ逆さまに落ちてしまう。その様子がますます可笑しくて、ぼくらはしばらく笑いが止まらなかった。
出来上がったスモークサーモンを、リックたちは出掛ける先にどこへでも、持っていく。ぼくらにとって外出するときにスマートフォンが欠かせないように。もちろん彼らにとってもスマートフォンは欠かせないが、それと同じくらいリックたちにはスモークサーモンが欠かせない。
アリーとリックに拾ってもらったあの日、別れ際に「お腹すいたでしょ?これあげるよ!」と渡されたジップロックに入った何本ものスモークサーモンもこうして作られたものだった。
作業を終えて見上げると、数え切れないほどのサケの切り身が、いくつもの簾が重なり合うようにぶら下がっている。屋根と壁の隙間から差し込んできた西陽に照らし出されて、赤々と透き通って輝いている。
ヌラト村に向かうまでの2日間、このスモークサーモンをかじっては待ちわびていたまだ見ぬ世界をいま、目の当たりにしていた。それは想像よりもはるかによろこびに満ちていた。
「わーお、綺麗だね。ヒロ、写真撮っといてよ!写真!」
キティがはしゃいでいる。
ぼくは肩にかけたカメラを慌てて構え、シャッターを切った。
そう、君にも見せた、ステンドグラスみたいな、あの写真。