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十一.日常への祈り

色付いた葉も落ち始め、冬の足音が近づいていた。半年ほども続く、長く厳しい冬を越すために、山ほどの薪を用意しなければならない。エリーの家の前で、ジョージがチェーンソーで切り倒した木を細切れにしていた。

「いいところに来たな!手伝ってくれよ!こいつらを割ってくれ!斧はたしかあのへんにあったはずだよ」

チェーンソーを止めて、ジョージはスモークハウスの方向を指さす。こうして別れの挨拶をしようとエリーに会いに来たはずのぼくは、薪割りするはめになってしまった。

まさか、村での最後の日にこんな重労働をすることになるとは思ってもみなかった。洗濯したきれいな服に着替えたばかりだったが、仕方がない。ぼくにとっては最後の日でも、彼らにとっては巡り巡る日々のうちの一日なのだ。

ぼくは袖を捲って、斧を掴んだ。


幸運がやってきた後の数日、村のチーフであるミッキーは再び出張で留守にしていた。村に残されたエミーもジョージもぼくも、エリーの家の薪を作る作業に総出で明け暮れていた。

もうすでに倒れている大木の幹から、枝を斧で払い落すのがぼくの役割。それをジョージが丸太サイズにチェーンソーで切り分け、エミーが斜面から道路に運び出す。これを家の庭まで運び込み、さらにチェーンソーで短く切り分けると、ようやく薪割りの準備が整うという、途方もない作業である。とにかく重労働だった。

そんなぼくらの横で、乾燥して剥がれ落ちた白樺の樹皮をエリーは夢中になって集めていた。油を多く含んだそれは、最高の着火剤になるのだ。

昼食には、エリーが作ってくれたサンドウィッチをみんなで頬張った。サケのほぐした身にマヨネーズを混ぜたもの、いろいろなベリーのジャム。秋晴れの青空の下で食べる、ぜいたくなサンドウィッチだった。

「なんか鳴き声が聞こえるよ!聞こえないかい!?」
エリーに言われてみんな耳を澄ませる。

「あれだ!」
ジョージが指差す先には、数百羽の鶴が円を描いて空を舞っていた。その数はどんどん増えていくのだという。ぼくらは無数の黒点がまるでひとつの意志を持っているかのようにまとまって移動する様を、じっと見つめていた。
腹を満たし終わると再びぼくらは作業に取り掛かった。

事件が起きたとき、作業を始めてからすでに数時間が経っていた。筋肉にも疲労が溜まり、集中力も落ち始めてたんだよね、と言い訳してみるが、だからと言って許されるものではない。

道路に運び出した長い丸太をトラックの荷台に積むときに、地面に立てて置いたそれをそのまま倒して載せようとした。横着だった。本当は地面で横に倒してから荷台に載せるべきだった。長すぎた丸太は荷台の奥行きに収まりきらず、運転席の天井を直撃した。

ものすごい音とともに天井は、一目見てわかるほど凹んだ。出張から帰ってきたミッキーがこれを見たらカンカンになって怒るに違いない。やってしまった。自分の横着を悔やんだ。後悔先に立たず。

「誰だって失敗して学んでいくんだよ」
頭を抱えて右往左往するぼくを、ジョージは笑って励ましてくれた。

「おれなんか、スノーモービルを凍った川の上で乗り回しすぎて、雪の山に乗り上げて頭から雪に突っ込んで、フル回転のチェーンに服を巻き込まれて、危うくそのままモーターに粉々にされるところだったんだぜ。みんなそうやって学んでいくんだよ」と爆笑している。その失敗は一歩間違えたら命がないじゃないか。全然笑えないよ。

「事故は事故だって。だから起こってしまったものはしょうがないよ。気にするな!」
まだ落ち込んでいるぼくを、ジョージは諦めることなく励ましてくれる。

「もっとひどいのだっていっぱいあるんだからな。上には上がいるんだよ。おれがチェーンソーの講習を受けたとき、インストラクターが見本に切ってみせた木は、止めてあったバスのエンジン部分に見事に倒れたんだぜ。みんなで拍手喝采したさ」

この話には、ぼくも思わず笑ってしまった。笑ってる場合じゃない。ぼくも同じことをやりかねない。って、きっと君は思ったんじゃないかな。冗談抜きでぼくもそう思う。


そんなジョージからもお別れの記念に、嬉しいサプライズがあった。朝起きたあと、ディーの家を訪ねると、滅多に料理をしないジョージがなんとキッチンに立ってフライパンを振っていたのだ。部屋中に肉の焼けるいい匂いが漂っていた。

何が起きたのか、驚きを隠しながらぼくは声を掛けた。
「おはよう」
「おはよう!」
ジョージが振り返って、いつも通りのゆったりとした渋い声で、にっこり微笑みながら返してくれる。

「なんだか眠そうで硬そうな体をしてるな」
思わぬ突っ込みに、そうかなあとぼくは自分の体のあちこちを見て笑った。

ジョージは真面目な顔で言った。
「いつも、何が起きてもいいように、体と感覚を準備しておくんだ。動物も、目を開ける前に体を伸ばしてストレッチしてるんだぞ。今度よく見てみろ!」
なるほど、と思いながらぼくは両手を天井に向かって上げて背筋を伸ばした。

ディーの愛犬サンシャインは、玄関近くの寝床で前足に頭を乗せ、重たそうな瞼を半分だけ開けている。最初のころはぼくに向かって吠え続けていたが、もうすっかり慣れてくれた。

「おはよう」
どこから声がするのかと思ったら、ディーは両手で大きく広げた新聞の陰に隠れていた。読んでいた新聞をテーブルに置いて老眼鏡を外すと、ディーはぼくの寝起きの顔を見てにっこりと微笑んだ。

「コーヒーいるかい?ジョージが朝淹れたのが、まだポッドに入ってるよ。いまジョージが特製オムレツ作ってるから、ちょっと待っててね」

「もうすぐできるよ。パンを焼いておいてくれ!」
キッチンからジョージが大声で叫ぶ。

「わかった!」とぼくは返事をして、パン焼き機にスライスされた食パンをセットするついでに、コーヒーをすすりながらフライパンを覗き込む。玉ねぎとじゃがいもと、何やら円くて平べったい肉。

ぼくが不思議そうな顔をしていたのだろう、ジョージが教えてくれた。
「ムースソーセージだよ。うまいぞ!裏返した腸に挽いた肉を詰めて焼くんだよ」

そうだ、このあいだ獲ってきたムースだ。それから溶いた卵を入れて二つ折りにする。特製オムレツのできあがり。ちょうどきつね色に焼きあがったトーストに、こんもりとオムレツを乗せて、落とさないように注意しながらかぶりつく。

「まだまだあるからな!たくさん食べろよ!」とジョージは鼻を鳴らしながら言った。

「ジョージ!これ美味しいわね!ジョージはね、料理はうまいのよ。滅多に作ってくれないけどね」
ディーは笑いながら言った。


夕食には、エリーがムースのヘッドスープを作ってくれた。ご馳走だらけだ。ヘッドスープというのは、ムースの頭部を煮込んだスープのことで、ポトラッチ以外で食べるのは初めてだった。温かいスープを囲んで、いつもながらジョージの失敗談にみんな大笑いしていた。

「寝る前に暖炉に薪をくべすぎたんだな。深夜に家の中が暑くなりすぎたんだよ。午前3時くらいだったなあ。汗だくで飛び起きて、体を冷やさなくちゃ!と思ってパンツ一丁で雪の中を転がり回ったんだ」

これだけで話は終わらない。
「翌朝、真向いの店に行くと、オーナーの女性がにやにやして聞いてきたんだよ。『何かあったのかい?午前3時に雪の中を裸で転がり回って、何してたんだい?』ってな。おれは言ってやったさ。『そっちこそ午前3時に起きてなにストーカーしてるんだ』ってな」

ちなみに薪割りはまだまだだなあ。あと5本くらいは切っておかないと冬は越せないなあ。話は続いていく。来月の中頃には、もう雪が降り始めるらしい。早くしないと間に合わない。日々の生活は忙しい。生きることにまつわる話題は尽きることがない。

3杯目のおかわりをすると、もう腹ははちきれんばかりにいっぱいだった。毎日のように口にしていた、ムースのこの何とも言えない独特の匂いとも、もうそろそろお別れである。

ぱんぱんに膨らんだぼくの腹を見てジョージは言った。
「今日みたいにな、パーティーでたんまり食べた次の日の朝だよ。たらふく、腹がはち切れそうなくらい食べたんだ。翌朝トイレに行ったら、それまでにもそれからもないくらい長いうんちが出て、本当にとぐろを巻いてたんよ。これをこのまま流しちゃうのはもったいない!と思って、隣の部屋で寝てた友だちの夫婦を起こしに行ったんだよ。とんでもないものが出たぞ!早く見に来い!見ないともったいないぞ!ってな。やつの息子、5歳くらいだったかなあ、飛び起きてトイレに駆け込んでこう言ったんだよ。『わお!めっちゃイケてるな!』」

「めっちゃイケてる、だってよ」
ディーとエリーが顔を見合わせて大笑いしている。

「最後にもうひとつ」
ジョージがまた話し始める。

「おれが高校一年生のときだった。学校のスケートリンクでひとりでスケートをしてて、後向きで初めて滑れた!と思ったら鉄のポールに突っ込んで頭を打って、そのまま学校の保健室に運び込まれたんだよ。目を覚ましたとき、ちょうどブロンドヘアの若いかわいい看護師さんがおれの目を覗き込んでたんだ。おれは迷わなかった。迷わずキスしてやったさ」

この夜も、ぼくらは笑いに笑った。最後の晩にふさわしい、一日に一度、この二カ月のあいだ変わらず過ごしてきたのと同じ、賑やかな夜だった。


翌朝、ゆっくりと起きて顔を洗い、朝食を食べてコーヒーを飲んだ。ジョージ、ディー、エリー、ジョニー、お世話になったみんなに礼を言った。日本から持ってきていた和紙の折り紙で暇なときに折りためていた鶴を、数羽ずつ糸で縦に通したものを手渡した。とても喜んでくれて、壁から下げて飾ってくれた。

それからみんなで写真を撮った。私たちが毎日の生活で記念写真など撮らないのと同じように、彼らにとってあまりにも平凡な日常にお邪魔していたので———そして時間が経つにつれてアラスカという非日常はぼくにとっての日常へと馴染んでいったので———一緒に写真など撮っていなかった。お願いするのも少し気恥ずかしかった。

すべては順調に終わり、あとは飛行機を待つのみだった。が、最後の最後というところで、まさかの事態が起きた。あたりを覆い尽くした霧のために、飛行機が飛ばなかった。夕方までディーの家でただひたすら待ったが、結局この日のフライトは中止された。

その日の夜、ぼくは一睡もできなかった。

一日何もしてなくて、体が疲れていなかったからだろうか。いや、違う。不安だ。帰国の便を逃すかもしれない、帰れないかもしれない、という不安だ。

そんなことになったら、帰国便を予約し直さなくてはならない。2週間、いや3週間は延びるだろう。お金はなんとかなるかもしれない。しかしヌラト村にいたこれまでの2ヶ月の間、ほとんど音信不通だった。この小さな村にWi-Fiなどなかったのだ。君は元気でいるだろうか。病気になってないだろうか。今はどんなことを思っているのだろうか。出した何通かの絵葉書は届いているのだろうか。ぼくのことを待ってくれているだろうか。きっと待ってくれている。だとしたら何としてでも帰らなければ———。

澄み渡った夏の青空に浮かぶ白い雲が鏡のように凪いだユーコン川の大きな流れに映し出される中を走る一艘のボート。ひんやりとした秋風に吹かれて青く色づいたブルーベリー。どこに向かうのかユーコン川を泳いで渡るムースの親子。ステンドグラスのように赤々と輝くスモークサーモン。黒い雲を映し出すユーコン川の滔々とした流れに逆らうように深みにとどまる一本の流木。

そのときどきにぼくが出会った景色を、君に少しでも見てほしくて、持っていった水彩絵の具で絵葉書を描いては送った。郵便局の窓口のおばさんにはすっかり覚えられてしまっていた。ヌラト村から国際郵便で日本に絵葉書を出す人は、この村でぼくだけだっただろう。最後に窓口に行ったときは、宛先を聞かれるまでもなく「こんにちは。いつものね」と笑顔で切手を貼ってくれた。

こんな自分を待ってくれている人がいる。それがどれほど有難いことなのか、痛いほどに感じていたんだ。飛行機を待っているぼくは、待たれていた。だから、帰りたいと心から思った。自分を待ってくれている人のもとへ、自分がいるべき場所へ、帰りたい。

自分から出てきたのに、こんなにも帰りたいのだと、自分で自分に驚いた。

今さらになって思い知らされた。
大切な人と過ごす、何気ない、当たり前の日常こそが、かけがえのないものなのだ、と。

ミッキーたちもまた、そのような日々を生きていたのだ。そのような日々にぼくを迎い入れてくれたのだ。

思えば最初はネイティヴ・アメリカンの生活を知りたいと願い、アラスカまでひとりザックを背負いやってきた。そしてミッキーたちと出会った。その出会いは、ぼくに静かに教えてくれていた。彼らはネイティヴ・アメリカンであるという手前で、同じように泣き、笑い、かなしみ、怒り、傷つき、愛する、ぼくと変わらない人間なのだと。

「ヒロ!おまえはこの村に引っ越してきたんじゃなかったのか!?」という村の人たちからの嬉しい冗談に、ディーは真顔で言ったものだった。「ダメよ!ヒロにはヒロの家族がいるんでしょ!大切な人たちのそばにいてあげなきゃ!」。そればかりか、早く帰らなくていいの、とまで時々心配してくれていたディーの言葉の重みに、それを失いかけて、初めて気付く。

馬鹿な自分に笑うしかない。

濃霧という理由などない自然の営みに、ぼくは理由を探さずにはいられなかった。きっとこれは最後の戒めなのかもしれない。大切な君を置いてきてしまった、自分の愚かな行為への戒め。

星のひとつでも見えて来ないかと、時折カーテンの向こうの暗闇に目をやった。

霧が晴れることを、そのための風が吹くことを、祈り続けた。

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